赤塚不二夫の若い頃がイケメン!満州生まれで差別の過去。新潟にゆかり&伝説とは

『天才バカボン』や『おそ松くん』の原作者として漫画史に名を残す赤塚不二夫(あかつかふじお)さん。

よくテレビで拝見する写真では、バカボンのパパの仮装をされていますね。

しかし、若い頃はイケメンだったともっぱらです。

また、作品のイメージとは裏腹に、満州生まれで幼いころはいじめも受けたといいます。

そのような経験のうえで明るいギャグ漫画を描かれた彼、新潟では、その伝説が今なお息づいているようですね。

赤塚不二夫のプロフィール

愛称:ギャグ漫画の王様

本名:赤塚藤雄

生年月日:1935年9月14日

身長:不明

出身地:満州国熱河省

最終学歴:新潟市立潟東中学校

所属事務所:なし(故人)

赤塚不二夫の若い頃がイケメン!

赤塚不二夫さんといえば、バカボンのパパになりきった写真が有名ですね。

しかし、そのイメージからは、打って変わって、若かりし頃はなんとスッキリ系のイケメンだったのです。

鈴木亮平さんと要潤さんを足して2で割ったようなご尊顔ですね。

そのイケメンぶりは当時、トキワ荘でナンバーワンとのことですが、誰もが納得するのではないでしょうか。

そして、彼女もいたと、こちらはトキワ荘でオンリーワンだったとも言われています。

つまり、唯一の彼女持ちだったのですね。

若い頃の赤塚不二夫を林遣都が演じる!

これまで、赤塚不二夫さんの人生が数々のドラマで再現されてきました。


皆さんのなかでは、浅野忠信さんや阿部サダヲさんの印象が強いかもしれません。

しかし、それは『おじさん』になってからの赤塚不二夫さんに寄せているからでしょう。

一方、2018年の日本テレビ系『24時間テレビ』内のドラマ『ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語』では、トキワ荘の仲間として、赤塚不二夫さんが登場しています。

ということは、必然的にあの若かりしイケメンの赤塚不二夫さんをモチーフにキャスティングが行われますね。

この時、赤塚不二夫さんを演じたのが、林遣都さんでした。

あの大島優子さんのハートをも射止めたイケメンは、たしかに、当時の赤塚不二夫さんを見事に体現されていますね。

ちなみに、作中では、赤塚不二夫さんが石ノ森章太郎さんに相談し、『ナマちゃん』を描くシーンもあったようです。

ぶっ飛んだギャグも多い赤塚不二夫さんですが、林遣都さん起用に関しては、『写実的』といった感じですね。

赤塚不二夫は満州生まれでいじめも!

お父さんが当時の満州国で特攻警察や消防関係として活躍していたという赤塚不二夫さん。

お父さんは差別などは決してしない非常に徳のある人物だったようです。

しかし、日本に帰国すると、今度はご自身たちが『満州だから』という理由で差別やいじめにも遭ったといいます。

配給を分けてもらえなかったなどということもあったそうですね。

ただ、そんな時に出会ったのが、学校の番長・奥村さんでした。

番長というと、いじめっ子の親分というイメージもありますが、奥村さんは情に厚い、まさにドラマに出てくるタイプの番長だったのですね。


しかし、仲良くなるきっかけを作ったものこそ、赤塚不二夫さんが描いた漫画でした。

いじめっ子のことを漫画にして、奥村さんに見せたところ、その後、赤塚不二夫さんをいじめたら、自分が許さないという旨のアナウンスがなされたそうですね。

この後、彼の影響で、柿泥棒など、悪ガキへの道を彼と共に歩むわけですが、それでも、優しさも忘れてはいません。

体にハンデを抱えた生徒とともに、運動会を見学するよう、奥村さんに言われると、それに赤塚不二夫さんは従ったそうですね。

赤塚不二夫さんご自身は、のちに、奥村さんのその指示に感服していたようですが、実際に一緒にいてあげた赤塚不二夫さんもまた負けず劣らずのものを持っているのではないでしょうか。

彼曰く、世の中とは、正しさと悪さ、美と汚、富裕層と貧乏人といった様々なものを全て含んでいるのだといいます。

満州国で見てきた現実や、ご自身が受けたいじめと優しさ、それが『ギャグ漫画』として、深いところで明るく温かく描かれていると思うと、より赤塚不二夫さんの作品が高尚に思えてきますね。

赤塚不二夫がゆかりの地・新潟で伝説も多数!

帰国当初は、奈良で暮らしていた赤塚不二夫さんですが、中学校は新潟市立新潟東中学校のご出身です。

中学時代のペンネームは、当時の画帳によると、『赤塚藤男』となっており、本名の漢字を変更するスタイルはこの頃からのようですね。

また、中学校卒業後は、新潟市の看板屋に就職したといいます。

このゆかりもあって、過去に、潟東歴史民俗資料館や新潟市美術館では、期間限定で赤塚不二夫さんの展示会が行われるなど、やはりその軌跡というのは、同地にもしっかり刻まれているようですね。

タモリとの伝説も熱い!

他方、ある意味、赤塚不二夫さんの最期の伝説ともなったのが、彼の葬式・告別式でしょうか。

この時、弔辞を読んだのが、恩人、あるいは『師弟関係』とも言えましょうか、あのタモリさんでした。


自らも、赤塚不二夫さんの作品の一つだとの旨で締め括ったその弔辞は全国の人々の胸を打ちましたね。

しかも、それが白紙だったということで、その表現しきれない思いは、より強く皆の心に刻まれたのではないでしょうか。

実は、この『白紙の弔辞』は、かつて赤塚不二夫さんとタモリさんがコントでやったものが背景にあったと言われています。

それだけでもすごいのですが、生前からのやりとり全てが、お二人の伝説と言えるのではないでしょうか。

福岡から出てきたところのタモリさんを、この世界に入るよう諭して、そのままマンションへ招き入れます。

一説には、この時、赤塚不二夫さんは代わって事務所のみかん箱の上で寝ていたなんて逸話もあるようですね。

さらには、ネタ作り、映画や芸術など様々な面でタモリさんをサポートし、今や、お笑いBIG3の1人に数えられるまでになりました。

つくづく、赤塚不二夫さんの眼力には凄まじいものを感じますね。

ただ、生前、タモリさんは赤塚不二夫さんにお礼を言ったことがないといいます。

それは、タモリさん曰く、赤塚不二夫さんが勝手に才覚を見出して世話を焼いているためとの旨でしたが、弔辞では、その真意も語られていました。


タモリさんにとって、赤塚不二夫さんは、肉親以上の存在であり、そこへ『他人行儀』であるお礼を入れて、その雰囲気を醸したくはなかったとの旨だったそうです。

それほどまでの経緯と親近感を抱いていたタモリさん。

彼曰く、赤塚不二夫さんなら、弔辞を読んでいるその時すら、お笑いを志す者なら、弔辞で笑わせることを期待しているのではないかという内容のお言葉も赤塚不二夫さんらしさを存分に表しておられました。

きっと、こうした赤塚不二夫さんの伝説は、語り継がれて、様々な人の心の中で生き続けていくのでしょう。

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