『ドラえもん』『オバケのQ太郎』などの代表作を残した、国民的漫画家の藤子不二雄F(ふじこ・エフ・ふじお)さん。※正式名称「藤子・F・不二雄」
まだまだ活躍が期待されていた1996年9月23日、62歳で亡くなってしまいました。
今回は不二雄さんの死因は肝不全だったという情報、自宅の詳細を確認します。
また偉大さがうかがえるエピソードを見ていき、凄さをまとめます。
藤子不二雄Fのプロフィール
本名:藤本弘
生年月日:1933年12月1日
死没:1996年9月23日
身長:不明
出身地:富山県高岡市定塚町
最終学歴:富山県立高岡工芸高等学校電気科
藤子不二雄Fの死因は肝不全
1996年9月23日、不二雄さんは肝不全により慶應義塾大学病院で亡くなりました。
肝不全は肝機能が大幅に低下してしまう症状で、肝臓の損傷や肝臓にダメージを与える物質が原因です。
当時は『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』を執筆している途中でした。
連続でドラえもん映画視聴してました(笑) 「ドラえもんのび太のねじ巻き都市冒険記」視聴。ドラちゃんにしては割と現実的な話かな? 環境問題に言及する場面もあったり、種まく者など不思議な神様の存在も。悪人と戦う場面はハラハラしましたが、個人的にはなかなか心に残る作品だと感じました。 pic.twitter.com/EkDZxCWpbQ
— ろくおんじさよこ 麻雀修行中のラーメン好きでプロの物書きを目指すVな人❄🌹 🌅🎗 (@ErzaSayoko) September 4, 2022
家族がいつも通り、夕ごはんの準備ができたことを告げると、仕事部屋から返事が聞こえたといいます。
しかしいつまでも食卓にやって来なかったため、娘さんが仕事部屋へ様子を見に行きました。
そこで、意識を失い机の上に寄りかかっている父を発見。
不二雄さんはすぐ病院に搬送されましたが、そのまま亡くなりました。
意識を失う直前まで描いていたのは『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の62ページ目でした。
モノを大きくできるビッグライトを使って、スネ夫のロケットを巨大化するシーンを描いているとき、鉛筆を握ったまま絶筆していたのです。
62歳という早すぎる死でしたが、本人は以前から体調不良を感じていたのか、最期を意識していた様子だったとされています。
『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』を完成させられるか不安視していたようで、全体像を周囲に伝えていました。
おかげで最後の弟子むぎわらしんたろうさんが、残された資料をもとに完成させることができたのです。
また死後の作品の行方、自身の藤子プロの活動方針などについて手紙をしたためていました。
さらに出産を控えていた次女のために「金一封」を事前に用意していました。孫に会えないことを覚悟していたのでしょう。
自身の死を予測し、残された人々が困らないよう入念に準備をしていた点から、真面目で抜け目のない性格だったことがうかがえますね。
藤子不二雄Fの自宅は川崎
不二雄さんは下積み時代、東京都豊島区にある漫画家アパート・トキワ荘で暮らしていました。
コンビを組んでいた「藤子不二雄A」こと安孫子素雄さんらと、切磋琢磨しながら漫画を描いていたのです。
昭和31年、今や伝説のトキワ荘で。
下左から つのだじろう、寺田ヒロオ、藤本弘(藤子F不二雄)。
中左から森安直哉、石ノ森章太郎、我孫子元雄(藤子不二雄A)、赤塚不二夫。 上は鈴木伸一。 pic.twitter.com/ieZ3oGpQv0— オダブツのジョー (@odanii0414) August 2, 2017
1961年にトキワ荘を退去すると、神奈川県川崎市に居を構えています。
国民的キャラクター・ドラえもんもこの街で生み出されました。ドラえもんが川崎市の特別住民として登録されているのも面白いですよね。
川崎市には、科学技術の発展により生まれた工業地帯があります。
同時に多摩川をはじめとする河川、生田緑地といった自然豊かな土地も存在するエリアです。
SFと日常が融合された名作『ドラえもん』は、近未来を感じさせる施設と素朴な自然がある川崎市だからこそ誕生し得たのでしょう。
藤子不二雄Fの偉大さがわかるエピソード
不二雄さんの最後の弟子むぎわらしんたろうさんは、師匠との思い出を描いた漫画『ドラえもん物語~藤子・F・不二雄先生の背中~』を発表しています。
感動の声が続々届いている『ドラえもん物語 ~藤子・F・不二雄先生の背中~』は大人気につき早くも3刷目! さらに作者のむぎわらしんたろう先生が11月2日(木)24時58分~25時28分「ゴロウ・デラックス」に登場! 本作が課題図書として特集されます! お見逃しなく! pic.twitter.com/K5qejK4V9f
— コロコロコミック【公式】 (@corocoro_tw) October 27, 2017
作中にも師匠の偉大さをちりばめたむぎわらさんですが、インタビューを受ける度にその凄さについて熱く語っています。
弟子のことを単なるアシスタントとしては扱わず「空き時間には、自分の作品を描くように」と言葉を掛けてくれたそうですよ。
しかも弟子の原稿には有益なアドバイスを提供してくれました。口頭ではなく、詳しくまとめた文章だったそうです。
ただでさえ多忙だったにもかかわらず、弟子が成長できるよう細やかなサポートをしてくれたのですね。
ときには厳しいアドバイスも提供していた点から、本当にむぎわらさんのためを思ってくれていたことがうかがえます。
偉大な漫画家とは、自分のノウハウを独り占めするのではなく、弟子にも共有してくれる存在なのかもしれませんね。
この時連れてったアシスタントのむぎわらしんたろう氏が丸顔に眼鏡かけてたんでリアルのび太として大人気になってしまったという話が好きw https://t.co/nYybC12ZmA
— トザン (@miyakozan) September 2, 2022
藤子不二雄Fの凄さは熱い心
『オバケのQ太郎』や『パーマン』など大ヒット作を連発していた不二雄さん。
しかし実は長いスランプを経験していたため、常に順風満帆だったわけではありませんでした。
うまく漫画を描けず、苦しい日々を送りつつ、少年漫画誌だけでなく青年誌に短編を掲載するなど試行錯誤。
1969年に学年誌で描き始めた『ドラえもん』も、最初は人気が出ませんでした。
1974年にアニメ化されたものの、すぐ放映終了に。漫画家のキャリアがストップしかけたとき、『ドラえもん』の単行本が発売されました。
ここで人気に火が付いた結果、単行本はなんと1,500万部の売上を達成し、世界的な人気作品となっていったのです。
苦しい日々の中でも諦めず、最期の瞬間まで漫画を描き続けた情熱の強さ。
不二雄さんは創作者について「自分の中に表現したい、訴えたいものを持っているかがいちばん重要」と語っています。
決して天才肌の漫画家ではなかったものの、希望を捨てずに表現者としての熱い心を持ち続けた点に凄さがあるのでしょう。
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