尾形光琳はどんな人?遊び人エピソード。兄弟は尾形乾山。子孫は小西家&家系図まとめ

元禄文化の時代、画家・工芸家として活躍した尾形光琳(おがた こうりん)。

歴史の教科書や美術番組で名前を見たり聞いたりしても、どんな人か具体的に説明できない人もいるのではないでしょうか。

今回は光琳がどのような人物だったか見ていき、遊び人だったというエピソードを紹介します。

また兄弟の尾形乾山、子孫について家系図を参考に確認します。

尾形光琳のプロフィール

幼名:尾形惟富(おがた これとみ)

生年月日:1658年(万治元年)

死没:1716年7月20日(享保元年6月2日)

身長:不明

出身地:京都(現在の京都府京都市上京区山里町)

尾形光琳はどんな人?わかりやすく説明

尾形光琳は、江戸時代中期に活躍した芸術家で「琳派」という派閥を大成させた人物です。

『風神雷神図』で知られる俵屋宗達の画風に影響を受け、インパクトのある大胆な作品を多数残しました。

それまで絵画界の二大勢力だったのは幕府に使える狩野派と朝廷に使える土佐派。


時代が流れるにつれてマンネリ化していた二大派閥に対し、独自の画風を確立して新たな一派を確立したのが光琳でした。

二大派閥の画風にとらわれず、斬新な作風で評価を獲得したのです。

代表作である国宝『紅白梅図屏風』は向かって右側の右隻(うせき)に紅梅、左側の左隻(させき)に白梅を描いた作品。

主役の梅の木は左右に配し、中央には力強く流れる川を末広がりに描いています。

あえて主役ではなく川のインパクトを強めつつ、左右の梅を繊細なタッチで描くという対照的な手法が印象的です。

また頑丈な木の幹と可憐な花弁を対比させ、全体の均衡を取っている点からも、対比の名手であることがうかがえます。

もう1つの代表作で同じく国宝の『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』も、右の燕子花は真っ直ぐに、左の燕子花は斜めに描くことで対比を表現しています。

さらに蒔絵の国宝『八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)』は『伊勢物語』をイメージした作品。

やはり黒と金銀で色彩の対比を表現しつつ、緻密な計算によってどの角度から見ても違和感のないデザインの箱を作り上げました。

繊細さが魅力の蒔絵に武骨な金属板を使った点も斬新です。

ただし、これは光琳の100年前に活躍した本阿弥光悦の『舟橋蒔絵硯箱』を参考に作ったものでした。


同作品は同じく国宝であり、東京国立博物館に所蔵されています。

光悦のような先人のデザインを参考に独自の創作を続けた結果、狩野派や土佐派が考案できない斬新な作品を生み出すことに成功したのです。

こうして光琳は、光悦の系譜に連なる芸術家として「琳派」を確立し、その名を美術史に刻みました。
  

尾形光琳の遊び人エピソード

国宝として認定される傑作を生み出した光琳ですが、私生活ではトラブルメーカーだったと伝わっています。

遊び人で色男だったようで、女性関係も派手でした。

妻は6人、子供は7人いたそうで、プレイボーイの芸術家だったことがうかがえますね。

30歳の頃に結婚したにもかかわらず、32歳のときに女性から子供の認知を巡り訴えられています。

屋敷や金銭を渡すことで和解しようと、試行錯誤していたそうです。

常識人には理解しがたい感覚の持ち主だからこそ、誰も想像できないほど斬新なアート作品を完成させられたのかもしれませんね。

尾形光琳の兄弟は尾形乾山

光琳には5歳年下の弟・尾形乾山(おがた けんざん)がいました。

画家・陶芸家として活躍した人物です。

代表作『銹藍金絵絵替皿(さびあいきんええがわりさら)』は重要文化財に指定されています。


また絵画では名作『花籠図』を描きました。

兄よりも地味な存在かもしれませんが、品のある味わい深い陶芸や絵画を残しており、兄との合作も発表しています。

まるで現代のアーティストが作ったかのようなかわいらしいデザインが特徴です。

時代を超えて現代でも作品が愛され続ける点から、兄と同じく当時を代表する優秀なアーティストだったことがうかがえますね。

尾形光琳の子孫は小西家

光琳の子孫が現在どのように過ごしているのかはわかりません。

ただ7人もの子供がいたのですから、おそらく健在の子孫は複数いるのでしょう。

判明している情報は、光琳の子孫の苗字が「小西」であることです。

小西家に代々伝わる資料「小西家文書」には、光琳の生家である「雁金屋」の情報も記されています。


雁金屋は豊臣秀吉の正室・高台院、側室・淀殿、後水尾天皇の皇后・東福門院などを顧客とした京都の高級呉服商でした。

「小西家文書」には衣裳図案帳のデザインが記されていますが、これは光琳も目にしたに違いありません。

燕子花らしき図案もあるため、光琳はこれを参考に燕子花をあしらった傑作を描いたのではないでしょうか。

光琳は図案を反物にどう配置するか自由に考えながら創作する風景を日常的に見ていたはず。

だからこそ型にとらわれない斬新なデザインを考案できる人物に成長したのでしょう。

尾形光琳の家系図まとめ

尾形家の祖先伊春は、将軍・足利義昭に仕える上級武士だったとされています。

伊春の子・尾形道柏の妻は本阿弥光悦の姉。

宗柏の末子が、光琳の父・尾形宗謙でした。

つまり光琳は、八橋蒔絵螺鈿硯箱を作る際に手本とした本阿弥光悦の遠い親戚にあたります。

斬新な画風で新たな派閥を確立した光琳は、デザインを愛する偉大な芸術家一族の一員だったのですね。


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