葛飾北斎の娘・お栄も浮世絵師、辰女は正体不明。息子は2人で子孫がいる?妻は2人

浮世絵画家として世界的に評価されている葛飾北斎(かつしか ほくさい)。

大波や赤富士のイメージが強烈な天才絵師ですが、家族について知る人はあまりいないのではないでしょうか。

実は娘のお栄、また辰女という名の娘も絵師として活動していたという記録があります。

今回は北斎の才能を継ぐ娘の詳細をご紹介しつつ、息子はいたのか、子孫の情報、妻についても見ていきましょう。

葛飾北斎のプロフィール

本名:川村鉄蔵

生年月日: 宝暦10年9月23日(推定1760年10月31日)

死没:嘉永2年4月18日(1849年5月10日)

身長:不明

出身地:武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)

北斎の娘・お栄も浮世絵師

まず北斎の娘で、絵師であったお栄という人物について見ていきましょう。

お栄の情報でわかっていることは少なく、生没年も不詳の謎に包まれた人物と言えます。

確かなのは、北斎の三女であることと、葛飾応為(かつしか おうい)の画号で浮世絵画家として活動していたことです。


2016年に直木賞作家・朝井まかてさんが発表した「眩(くらら)」は、お栄を主人公にした小説で、翌年にNHKドラマにもなりました。

ドラマでは宮崎あおいさんがお栄を演じたことで話題となっています。

実際のお栄は、あごが四角く出ていたため、北斎からは「あご」と呼ばれていたようです。

北斎の娘であると同時に弟子でもあったお栄は、父の作品の仕上げを担当するなどして腕を磨きました。

同じく絵師である南沢等明と結婚するものの、夫の絵を鼻で笑ったために離縁されるなど、父と同じく礼儀をわきまえない面があったのでしょう。

離婚後は北斎の助手として、死別するまで一緒に暮らし続けています。

そんな彼女の代表作は、『吉原格子先之図』と『夜桜美人図』いう作品です。

いずれも闇と光を効果的に描き分け、女性の美しい姿をほの暗い画面に浮かび上がらせた秀作。

レンブラントのような西洋画を思わせる陰と陽のコントラストが美しく、北斎の作品よりもお栄の作品の方を好む人もいるようです。

これだけ見事な作品を残したにもかかわらず、晩年はどのように過ごしたか不明で、一説では出家し尼になったということでした。

北斎をしのぐ勢いの才能を開花させたお栄ですが、やはりまだ封建的な時代に生きていたこともあり、当時は注目されずに終わったようですね。

美人画の実力は父を超えていた?

お栄を「あご」と呼んでいたエピソードからは、娘の扱いが雑な印象も受ける北斎。

ですが、その実力は高く評価していたようです。


特に美人画に関しては、自分より上と認めていたのだとか。

北斎に「美人画ではかなわない」と言わせたほどの腕前で、北斎作とされている美人画の中には応為が手掛けたものがかなりあるのではないかと言われている。

北斎といえば、日本国外でも高く評価される浮世絵師。

その北斎が自分より上手いというのは、よほどのことですよね。

それほどの才能があるなら、ゴーストライター説があるのもわかる気がします。

一般的には北斎の作品とされているものが、実は娘の手によるものなら、本当に高評価を得たのはお栄のはず。

そう考えると、父親と同じくらい有名でもおかしくない絵師なのかもしれません。

知名度は北斎の方が上だとしても、父を凌駕するお栄の作品も、この先ずっと語り継がれていくのでしょうね。

画号の由来が意外?

お栄が父親以上の才能を秘めた天才絵師なら、画号である「応為」にも、何か芸術的な意味が込められている気がしてきますね。

しかし、画号の由来には、思わず脱力してしまいそうな説があります。

北斎が娘に「おーい」と呼び掛けることが多かったため、それを画号にしたというのです。

「おーい」に漢字を当てはめたものが「応為」なのでしょう。

これが本当なら、画号というのは意外に適当なものなのかもしれません。


発案者が誰なのかは不明ですが、お栄もそれを受け入れていたなら、あまり抵抗は感じていなかったのでしょうか。

ただ、画号の由来には諸説あります。

「おーい」説はあくまでも可能性のひとつであり、確定情報ではありません。

さまざまな説の中には、お栄が北斎を「おーい」と呼んでいた話もあるようです。

他には、北斎の号のひとつ「為一」から来ている説もあるのだとか。

「為一に応ずる」という意味で、娘の画号が「応為」になったというのです。

そちらの方がセンスの良いネーミングに感じてしまいますね。

とはいえ、すごい才能を持った浮世絵師の画号が「おーい」由来というのも、ギャップがあっていいかもしれません。

重要なのは作品であり、名前にこだわりがなかったとすれば、芸術家らしいエピソードと考えることもできますね。

北斎の娘・辰女の謎

北斎の娘に、辰女という名前の絵師がいたとの記録がありますが、何者だったのでしょうか。

娘が3~4人いたとされ、その中のいずれかを指すと言われています。

専門家の研究によると、筆跡と画風の共通点が見られるお栄と同一人物であるという説が有力のようです。

しかし中には、辰女はお栄ではなく、別の娘だったという人もいます。

北斎の次女がお辰という名だそうで、この人物が辰女だとすれば、姉妹で絵師をしていたことになります。


ただしお辰は、嫁いだ先で病気により若くして亡くなったようです。

しかし現時点で、真相は不明のままと言って良いでしょう。

近い将来、辰女の正体が判明する日が来るかもしれませんね。

北斎に息子は2人。子孫もいる?

北斎の娘について見てきましたが、息子はいたのでしょうか。

生涯に2回の結婚をした北斎には、合計で6人の子供がいたというのが通説です。

その中の2人が男児で、先妻との間に生まれた長男が富之助、後妻の生んだ次男が崎十郎という名だったと伝わっています。

長男の富之助は、北斎を養子として育てた鏡師・中島伊勢の家督を継いだ後、早死にしています。

次男の崎十郎は、武家に養子として迎えられ、御家人として生涯を送ったようです。

父の画才を継いだのは娘だけのようでした。

これ以降の子孫についてはわかりませんが、これだけ多くの子供が分散していることを考えると、現在まで血筋が続いている可能性はあるでしょう。

北斎の妻は2人いる

では北斎の妻はどのような人物だったのでしょうか。

2人の妻との間にそれぞれ一男二女、合計6人の子供をもうけたことの他、詳細はありませんでした。

ただ先妻とは死別していることと、後妻の名前が「こと」だったことは可能性が高いようです。


また北斎は絵の他のことは一切に興味がなく、片付けもせずに「ごみ屋敷」同然の住まいに暮らしていたため、後妻には逃げられたとの説もあります。

家族の中で最期まで一緒に暮らしていたのは、父と同じく天才気質の変わり者だったお栄だけのようですね。

今回は葛飾北斎とその家族について見てきました。

変わり者の天才絵師は、お栄という理解者がいたことで、安心して制作に没頭できたのかもしれません。

関連記事
葛飾北斎の海外評価と影響。天才の構図とは? 作品の特徴を一挙紹介

葛飾北斎は改名30回、本名は?生涯&性格について。引っ越しの数もすごい

伊能忠敬の家系図。子孫はキャディー&カフェ経営者。生家と旧宅について

尾形光琳はどんな人?遊び人エピソード。兄弟は尾形乾山。子孫は小西家&家系図まとめ

北大路魯山人の息子は夭逝、娘は絶縁。子孫は北大路泰嗣。結婚6回&母親の不義の子

コメント