松本善明、妻・いわさきちひろの死後に再婚。息子は松本猛。老衰で死去&経歴まとめ

弁護士として松川事件やメーデー事件など、昭和の重大事件に関わった松本善明(まつもと ぜんめい)さん。

1967年の衆議院選挙では旧東京4区から初当選し、計11期務めた共産党の政治家でもあります。

また多くの人々には、絵本画家いわさきちひろさんの、7歳半年下の夫としても知られました。

今回は善明さんの再婚、妻いわさきちひろさんの死、息子の松本猛さんの情報を見ていきます。

併せて、善明さんが死去した際の詳細と経歴を確認します。

松本善明のプロフィール

本名:松本善明(まつもと よしあき)

生年月日:1926年5月17日

死没:2019年6月24日

身長:不明

出身地:大阪府大阪市

最終学歴:東京大学法学部政治学科

松本善明はいわさきちひろの死後に再婚

善明さんは共産党に属する政治家として、国会では知性を感じさせる答弁を披露し、支持者を獲得していきました。

出会った当初のいわさきちひろさんもまた、共産党支持者の1人でした。

政治的な意見が一致した結果、2人は同志として歩んでいくことになります。


1950年に結婚後、善明さんは司法試験の勉強に励み、ちひろさんは絵描きとして家計を支えました。

夫婦二人三脚で歩み続けましたが、1973年の秋、ちひろさんに肝臓がんが見つかります。

ちひろさんは闘病の末、翌年の8月8日に55歳で亡くなりました。
   
妻と死別してから7年後、善明さんは再婚しています。

再婚相手の詳細は不明ですが、おそらく失意の彼を支えてくれる親切な女性だったのではないでしょうか。

ちひろさんへの愛情は変わらなかったものの、残された人生を1人で歩むにはあまりに寂しがりやの男性だったのかもしれません。

松本善明の妻いわさきちひろの死

「子供の幸せと平和」をテーマに、優しいタッチの絵を描き続けたちひろさん。

善明さんは「妻は最後まで同志だった。人生の根底には共産党員としての生き方が流れていた」と考えていました。

同時に妻の芸術家としての才能を認め、作品を褒めて、創作活動を支えていたのです。

ちひろさんはがんを発病した後、「病気が治ったら、今度こそ無欲の絵を描く」と語っていたそうです。

「無欲の絵」という言葉に込められた本心はわかりません。


おそらく金銭や将来性などを度外視して、ただ一心不乱に絵を描きたいと考えていたのではないでしょうか。

病気を乗り越え、生かされていることに感謝しながら、強い精神力を武器に画業を続けたかったのかもしれません。

善明さんはそんな妻を支え、なんとか1枚だけでも絵を描いてもらおうとサポートしました。

闘病生活に寄り添い続けたものの、夫婦の願いが叶うことはなかったのです。

志半ばでこの世を去ったちひろさん。

それでも夫の愛情に触れ、満ち足りた気持ちで旅立ったと信じたいですね。

松本善明の息子は随筆家の松本猛

善明さんはちひろさんとの間に一人息子の松本猛さんをもうけています。

1951年4月18日に生まれた猛さんは、東京藝術大学美術学部を卒業した年に母を亡くしました。

親子で創作活動を行いたいと考えていましたが、母が早くに亡くなったため、一緒に制作できた絵本は『戦火のなかの子どもたち』だけでした。

1977年9月、母の作品を展示するため絵本美術館「いわさきちひろ絵本美術館」を開館させました。

練馬区の自宅兼アトリエ跡に開館した美術館は、今も「ちひろ美術館」としてファンに愛されています。


また1997年4月には、自身の祖父母、つまりちひろさんの両親が開拓農民として暮らしていた長野県松川村にも「安曇野ちひろ美術館」を開館。

館長として安曇野で暮らし始め、母の作品を後世に伝える活動に尽力しました。

2010年4月26日には長野県知事選に出馬を表明したものの落選しています。

政治家の道には進めませんでしたが、共産党議員だった父の生き方を目指そうとした可能性は高いですね。

尊敬する両親のように、自身の責任を果たそうと努めてきたに違いありません。

松本善明は老衰で死去

2019年6月24日、善明さんは老衰のため93歳で亡くなりました。

葬儀は近親者のみでささやかに営まれたそうです。

弱者に寄り添い、平和のために活動を続けた熱い生涯でした。

きっと天国でちひろさんと再会し、思い出話に花を咲かせていることでしょう。

松本善明の経歴まとめ

1926年5月17日に大阪府で生まれた善明さん。

北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)を卒業し、海軍兵学校に在籍中に終戦を迎えました。

東京大学法学部政治学科在学中、日本共産党に入党し、大学卒業後は国会秘書となっています。


ちひろさんと結婚後は妻の収入に助けられながら勉強し、司法試験に合格。

1954年からは弁護士となり、松川事件やメーデー事件に関わっています。

3名の死者を出した列車往来妨害事件・松川事件には、司法修習生として被告側弁護団を努めました。

しかし事件を調査していた時期、ちひろさんとともに外出すると、常に男たちに尾行されるようになります。

また住み込みで働いていた家事手伝いの女性が拉致され、松本夫妻について尋問されたこともありました。

この女性はすきを見て脱出に成功したものの、体調を崩して入院先の病院で変死しています。

善明さんは命の危険にさらされながらも、戦後最大の冤罪事件とされる松川事件に関わり続け、真相究明に励みました。

ちひろさんも気丈に彼を支える強き妻だったとされています。

1967年に善明さんは東京4区から初当選。

比例東北ブロックに移り、日本共産党衆議院議員を通算11期務めています。

最後まで正義のために闘い続けた、熱い志を持つ政治家でした。


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