いわさきちひろの生涯と越前の生家。生き方に母の影響。死因はがん&福井で過ごした3か月

優しいタッチのパステル画や水彩画を描いた絵本画家いわさきちひろさん。

55歳で亡くなってから50年近くが経過してもなお、数多くのファンを魅了し続けています。

今回はちひろさんの生涯に、生家、生き方の詳細を踏まえて迫っていきます。

また死因、生まれ故郷である福井県にある記念館の情報も見ていきます。

いわさきちひろのプロフィール

本名:松本知弘

生年月日:1918年12月15日

死没:1974年8月8日

身長:不明

出身地:福井県南条郡武生町(現在の越前市)

最終学歴:コロンビア洋裁学院

いわさきちひろの生涯

子供たちをモチーフにした作品を多く残したちひろさん。

モデルがいなくても、10か月と1歳の赤ちゃんを描き分けられたほど、観察力とデッサン力に優れていました。

また自身が母親として、大切な一人息子に注いでいた愛情が、そのまま作品に反映されていたに違いありません。


柔らかいタッチの作品からは、世界中のすべての子供に「平和としあわせ」をもたらしたいと考えていたことがうかがえます。

ちひろさんは青春時代に戦争を経験し、家を失いました。

壮絶な体験に思いを馳せながら「子供たちが自分と同じ目にあわないように」と願いを込めて作品を描いたのでしょう。

若かりし日の彼女は、優しく繊細な絵からは想像もできないほどの苦労を重ねていました。

大好きな絵の道を志したものの、望まない結婚生活を送ることになります。

どうしても夫を受け入れられず、かたくなに彼を拒絶しました。

夫はそのショックにより自殺してしまうのです。

戦争も経験し、人生のどん底を味わったのち、27歳で画家として自立することを決意。

ちひろさんの生き方を尊敬する黒柳徹子さんは「ちひろさんは全力で自分がしたことと向き合った」と語っています。

自分のせいで夫の人生を狂わせてしまったこと。

そんな自分が、多くの人が亡くなった戦争を生き延びられたこと。

ちひろさんは過去の罪と向き合い、自分を責めながらも、画家として生きていくことで前進したのです。

黒柳さんは「私たちは自分のしたことと本気で向き合っていない」と感じているそうです。

ちひろさんのように、自分の弱さと向き合い、克服していく真の強さを持ちたいものですね。


 

いわさきちひろの生家は越前の商家

ちひろさんが生まれた場所は、現在の福井県越前市天王町にあります。

旧北陸道を少し東に入ると、静かな古い町家が連なっています。

そこではかつて、質・古着商が営まれていました。


1918年(大正7年)12月15日、雪がふりしきる朝、その商家の離れでちひろさんは生まれます。

武生の実科高等女学校に赴任していた教師である母・文江さんは、ちひろさんを身ごもった後、商家の離れを借りていたのです。

当時の面影を残す家は「ちひろの生まれた家 記念館」として一般公開されています。

JR武生駅から徒歩約10分、車で約3分の場所にある記念館に、今も多くのファンが訪れています。

古い町並みが残る文化的な土地を見物しながら、ぜひちひろさんの生涯に思いを馳せてみてください。

いわさきちひろの生き方、母・文江からの影響

いわさきさんの長男・松本猛さんによると、人々は彼女を「鉄を真綿でくるんだような人」と評していたそうです。

優しさの中に厳しさを秘めた女性だったに違いありません。

猛さんはそれに加えて「自由な人だった」と回想しています。

ビートルズ旋風が巻き起こった中学校時代、いわさきさんは「ビートルズいいじゃない」と言ってレコードを買ってくれたそうです。

当時はビートルズを「不良の音楽」として禁止する親が多かった時代。


保守的になりすぎず、多様性を認めて柔軟な生き方ができる女性だったのではないでしょうか。

ほかにも猛さんが木登りをしているとき「私も登るから待ってて」と言って一緒に木登りをしたというエピソードも。

息子さんとの時間を存分に楽しむことで、戦争が終わり、ようやく訪れた平和な時代を満喫していたのかもしれませんね。

ちひろさんは母・文江さんから影響を受けた結果、しなやかでのびやかな生き方を実践するようになったようです。

文江さんはリベラルな女性で、当時の日本では知られていなかったクリスマスのお祝いをしたり、オルガンの演奏をしたりしました。

多くの子供たちが着物を着ている時代に、ちひろさんは洋服を着て育っています。

また母のおかげで色々なことに挑戦できたため、スポーツや運動など、さまざまなことが得意だったそうです。

豊かな感性を持つモダンな母のように、自身も息子さんの可能性を伸ばす自由な教育を実践していたのですね。

いわさきちひろの死因は原発性肝がん

1974年8月8日、ちひろさんは原発性肝がんにより55歳の若さで亡くなりました。

原発性肝がんは、肝臓から発生するがんです。


2か月前に描いた『あかちゃん』が絶筆となりました。

死の翌年には未完の遺作『赤い蝋燭と人魚』が刊行されています。

「子供はかわいがられて、幸せでなければならない」と語り続け、幸せを壊す戦争を嫌悪した生涯。

死の間際まで命の大切さを絵に落とし込み続けました。

2022年のロシアによるウクライナ侵攻を知ったとすれば、強い憤りを感じ、作品や文章を通して平和を訴えていたに違いありません。

いわさきちひろは福井で3か月過ごす

最後に付け足しておくと、ちひろさんが生まれ故郷である福井県越前市で過ごしたのは、3か月間だけでした。

先ほど紹介した記念館となっている生家のことは、覚えていなかったということですね。

母・文江さんはちひろさんを生んでから約3か月後の3月、夫が待つ東京に転居しました。

その後は東京府立第六高等女学校(現在の都立三田高校)などの教師として働き、1977年に86歳で亡くなっています。

3年前に娘のちひろさんが亡くなっており、きっと寂しい思いをすることもあったのでしょう。

子供たちに深い愛情を注ぎ続けた母娘は、今も天国から現代の子供たちの幸せを願ってくれているのかもしれませんね。


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