いわさきちひろの夫は松本善明。孫は絵本作家で息子は随筆家。三宅裕司との関係&母は教師

「子供の幸せと平和」を生涯のテーマとして作品を描き続けた絵本画家いわさきちひろさん。

作品からは子供たちに対する優しいまなざしが見て取れますが、実際の生涯の中でも子供たちに愛情を注いでいました。

今回はいわさきさんの夫・松本善明さん、孫、息子について見ていき、彼女が愛した家族に迫ります。

また幼き日の三宅裕司さんとの意外な関係、教師だった母の情報を確認します。

いわさきちひろのプロフィール

本名:松本知弘

生年月日:1918年12月15日

死没:1974年8月8日

身長:不明

出身地:福井県南条郡武生町(現在の越前市)

最終学歴:コロンビア洋裁学院

いわさきちひろの夫は松本善明、初婚相手は自殺

ちひろさんは生涯に2度結婚していますが、1度目は望まぬ結婚でした。

絵の道を諦めて無理やり結婚させられた結果、夫を愛することができなかったそうです。

夫は専修大学を卒業後、東洋拓殖に就職した、インテリ風の大人しい男性でした。


1940年に結婚式を挙げた後、夫婦で大連に渡り、社宅で暮らし始めました。

初夜の後、ちひろさんは涙を流して夫への嫌悪感をあらわにしていたそうです。

妹たちに「夫がそばに寄って来ると鳥肌が立つ」と語り、寝室は別にしていました。

新婦に拒まれ続けたら、誰でも生きることさえつらくなるに違いありません。

結婚からわずか1年後に夫は毒物を飲み、社宅のかもいを使って首つり自殺をしました。

いくら望まぬ結婚だったとはいえ、ちひろさんがここまで夫を嫌い、追い詰めた理由はほかにありそうですね。

「夫が性病を患っていたため拒絶した」という噂もあり、夫婦の間に何があったのか今でもさまざまに憶測されています。

その後、ちひろさんは夫を死に追いやった罪悪感と向き合っていたようです。

画家として自立する決意をし、必死に絵を描き続けました。

「2度と結婚はしない」という固い意思を抱いていたものの、1949年の夏、共産党員の松本善明さんと恋に落ちます。

共産党を支持していたいわさきさんは、党支部会議で演説する松本さんと交際を始め、1950年にささやかな結婚式を挙げました。

2人は共通の信念で結ばれた同志のような存在だったのでしょう。

その後、松本さんは弁護士となり、メーデー事件や松川事件などに関わりました。

ちひろさんも画家として稼ぎ、必死に家計を支えていたそうです。

1974年、ちひろさんはがんにより55歳で亡くなりました。

妻が亡くなったのちも松本さんは国会議員として精力的に活動。

2019年6月24日に老衰によって93歳で亡くなりました。

熱い情熱を胸に抱き、理想に向かって手を取り合いながら突き進んだ夫婦でした。
   

いわさきちひろの孫は松本春野

ちひろさんの志を受け継いだ孫が絵本作家として活躍しています。

1984年生まれの松本春野さんは、ちひろさんの孫として東京で生まれ育ち、多摩美術大学油画科に進学しました。

在学中にロンドン留学を果たし、ヨーロッパの絵本作家たちと交流して刺激を受けます。


大学卒業後は子供の本を中心に制作し、絵本『バスが来ましたよ』や『おばあさんのしんぶん』など子供向け書籍の絵を描いてきました。

ミニ絵本シリーズ「親子で一緒に楽しめる金子みすゞの詩集」では挿絵を担当。

同作は絵本原画展も開催され、春野さんの作品は多くの親子に親しまれています。

かわいらしい子供の姿を描き続けた祖母のように、これからも未来を担う子供たちの希望になる作品を生み出していくのでしょう。

いわさきちひろの息子は随筆家の松本猛

ちひろさんの一人息子で、春野さんの父にあたるのが、随筆家の松本猛さんです。

父母が、神田にあったブリキ屋の6畳1間で暮らしていた1951年に生まれました。

当時の父は司法試験の勉強中で、まだ駆け出し画家だった母の収入でなんとか生活ができていたそうです。

猛さんは勉強よりも体育が得意で、中学校時代は野球に熱中しました。

東京都立大泉高校に入学後も野球部に入るつもりでしたが、美しい女性に誘われた結果、演劇部に入部。

演劇部ではシナリオの執筆や演出を担当しました。


2年間の浪人生活を送ったのち、1972年に難関・東京藝術大学美術学部芸術学科に合格。

政治にはあまり関心がなく、野球やダンスパーティーなどを楽しむ学生だったそうですよ。

ただベトナム戦争が激化すると、母とともに反戦の思いを込め、絵本『戦火のなかの子どもたち』を制作しました。

これがきっかけとなり絵本作りの楽しさに目覚めます。

もう一度、母と絵本を作ろうとしましたが、同じ時期に母にがんが見つかりました。

母が亡くなる直前に音楽学部楽理科の学生・進藤由理子さんと学生結婚します。

春野さんたち3女1男をもうけましたが、のちに離婚しました。

ただちひろさんはきっと、亡くなる前に息子が妻に恵まれたことを嬉しく思ったに違いありませんね。

猛さんは現代絵本をテーマとした卒論を執筆したところ、雑誌「月刊絵本」に連載されることになりました。

その後、卒論は岩崎書店から『絵本論』として出版され、文筆家として活動を始めます。

また家族と相談し合いながら、母を記念する美術館の建設を決意しました。

母の死から3年目の1977年、自宅を使って小さな美術館「いわさきちひろ絵本美術館」を設立します。

劇作家の飯沢匡さんを館長に迎えつつ、自身は副館長となりました。

また1997年には、長野県安曇野市に「安曇野ちひろ美術館」も開館させました。

2000年には安曇野ちひろ美術館の取材を担当していた記者・藤森照喜さんと再婚。

安曇野で暮らし始めた日々については、エッセイ集『安曇野ふわりふわり』につづっています。

2017年には母の評伝『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』を上梓しました。

好きなことを存分にやらせてくれた母のために、熱心に活動を続けてきた文筆家・研究者でしたね。

いわさきちひろは三宅裕司の乳母

ちひろさんは自身の息子さんだけでなく、すべての子供たちに愛情を注いでいました。

なんと幼少期に三宅裕司さんが、ちひろさんの家の近所に暮らしていたため、母乳を飲ませてもらっていたそうですよ。


当時ちひろさんは、息子の猛さんを、信州松川村で開拓農民として暮らしていた両親に預けていました。

ただ母乳は毎日出るため、実際に息子に与えるときにスムーズに授乳できるよう、練習のつもりで近所の子供たちに分け与えていたのです。

その中に三宅さんがいたとは、驚くべき偶然ですね。

三宅さんももしかすると、いわさきさんが描いた子供の絵のモデルになっていた可能性もあるかもしれません。

いわさきちひろの母は教師

ちひろさんは母・文江さんの文化的でリベラルな教育によってのびのびと育ちました。

先進的な考え方ができた文江さんは、1890年(明治23年)、長野県松本市に生まれた女性です。

教育熱心な家庭で育ち、奈良女子大学の優秀な一期生となりました。

武生(現在の福井県越前市)の女学校に教師として赴任し、校長や生徒から信頼され、寄宿舎の初代舎監にも就任しています。

赴任から5年後、海軍技師の倉科正勝さんを婿養子として結婚。

文江さんは武生に残って教師の仕事を続けるため、夫と手紙でやり取りをしながら別居婚をしたそうです。

ちひろさんを妊娠すると舎監を辞め、現在は「ちひろの生まれた家 記念館」となっている町屋に転居。


出産後わずか1〜2か月で復帰し、学校と家を往復して育児と仕事を両立させました。

娘のちひろさんもまた、仕事と育児を両立させ、懸命に生き続けた女性でした。

母からもらった強靭な意思と仕事への情熱、そして深い愛情が、ちひろさんを立派な母親へと成長させたのでしょう。

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