勝新太郎の死因は下咽頭がん。晩年はトラブル続き。最後の作品は浪人街&妻は中村玉緒

昭和の銀幕スター勝新太郎(かつしんたろう)さん。

亡くなった死因は下咽頭がん。

晩年の生活や最後作品について、また彼を支えた妻についてお伝えしていきます。

勝新太郎のプロフィール

本名:奥村利夫(おくむらとしお)

愛称:勝新(かつしん)

生年月日:1931年11月29日-1997年6月21日

身長:170cm

出身地:東京都江戸川区

血液型:O型

最終学歴:法政大学中学高等学校中退

所属:大映、勝プロダクション

勝新太郎の死因は「下咽頭がん」

昭和映画を代表する銀幕スターの勝新太郎さんですが、1997年65歳で惜しまれながらもこの世を後にしています。

なぜそんなに早くに旅立たれてしまったのでしょうか。

勝さんの死因は「下咽頭がん」。


勝さんは1996年7月に記者会見を開き「下咽頭がん」を世間に公表しています。

手術はせずに、抗癌剤治療、放射線治療で治療をしたそうです。

入院中もお酒やお寿司を食べに外出していたり、タバコを吸っていたという噂もあります。

1997年6月21日に入院先の千葉県の国立がんセンター東病院で死去されました。

「下咽頭がん」公表の記者会見が衝撃的だった

1980年代以降の勝さんは、主演が決まっていた映画の降板、ドラマの打ち切り、プロダクションの倒産、撮影中の座頭市での死亡事故が起こるなど紆余曲折ありました。

しかし、復活の兆しが見えた1990年に「パンツにコカイン」事件でハワイのホノルル国際空港で、下着にマリファナとコカインを入れ所持していたのが見つかり現行犯逮捕されています。

ハワイでは罰金刑、1年4か月後に帰国すると「麻薬及び向精神薬取締法」の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決。

それ以降は表舞台には姿を現しませんでしたが、1995年に「不知火検校」で舞台復帰し、翌年には妻の中村玉緒さんと舞台「新夫婦善哉・東男京女」で初共演しました。

順調にいくかに見えましたが、物事は上手くはいかず体調不良を理由にその舞台を終了して入院することになりました。

その後に退院はしていますが1996年7月に記者会見を開き「下咽頭がん」であることを公表。

その記者会見が伝説的会見として現在も語り継がれています。


タバコをやめたかについての記者からの質問に勝さんは「タバコは吸いたくなくなった」と回答しながらも、会見が進んでいくとその場でタバコを吸うという破天荒ぶりを見せました。

またお酒についての質問については、お酒はやめたといいながらもビールの美味しさを語りました。

このような記者会見を開いた勝さんですが、実は会見中は体調はギリギリの状態で、全ては彼の演技だったと言います。

後に妻の中村玉緒さんは、タバコは肺まで吸い込まず口元でふかしていただけのパフォーマンスだったと明かしています。

さすが昭和の銀幕スターだと誰もが脱帽する伝説の記者会見となりました。

勝新太郎を襲った「下咽頭がん」とは?

勝さんは下咽頭がんでこの世を去りました。

1996年に検査入院したとき発覚し、本人から家族には「下咽頭がんで余命は3年だ」と伝えたとされています。

手術はせずに、抗癌剤治療、放射線治療での治療をしました。

では、下咽頭がんの原因や症状とはどういうものなのでしょうか。

主な原因とされるのは、飲酒や喫煙。

症状としては、咽頭痛、嚥下時痛、咽頭閉塞感があり、のどに症状が出る前に首のリンパ節が腫れることで発見されることもあるそうです。

手術を行う場合は、下咽頭・喉頭全摘出術がされ声帯を切除するので自分の声は失うことになります。

声を残すことを目的にした場合は、化学放射線療法や経口的切除術が治療方法です。


勝さんは若い頃から「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、大酒飲みで豪遊はあたりまえでした。

数人の取り巻きとお酒飲んでいる間にどんどん人が増えていき100人にまでなり、飲食代の全ては勝さんが支払いをしていたというエピソードも残っているほどです。

不摂生の生活が続き体型も肥満になり、演じられる役も限定されていきました。

勝プロダクション倒産後も生活は変わらず、借金してまで豪遊をしていて、その借金を返済する前に逝去されています。

このような豪遊が下咽頭がんの原因の1つではないかと考えられます。

勝新太郎の晩年はトラブル続きだった

1971年に勝プロダクションが倒産して以降は紆余曲折あり、勝さん世代からは根強い人気がありながらも、若い世代からはトラブルメーカーの印象が強い方となっていきました。

1990年にはハワイのホノルル空港で麻薬所持の現行犯逮捕。

帰国後に日本では「麻薬及び向精神薬取締法」の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受けます。

「パンツはもうはかない」発言は強烈なインパクトの残るものとなっています。

この発言は、1990年に当時59歳の勝さんがハワイのホノルル空港で下着にマリファナとコカインを入れ所持していたのが見つかり現行犯逮捕されたときに緊急で開かれた記者会見での一幕です。

「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」

それ以降は表舞台には姿を現しませんでしたが、1995年に「不知火検校」で舞台復帰し、翌年には妻の中村玉緒さんと舞台「新夫婦善哉・東男京女」で初共演しましたが途中で体調不良を理由に舞台は終了。

その後は療養生活になりました。

勝新太郎の最後

1960年代後半に所属していた大映の経営が悪化して1971年12月には倒産。


勝さんは1967年に勝プロダクションを設立して映画を製作し、主演だけではなくプロデューサーや監督も務めていました。

製作した映画は東宝が配給していましたが、その東宝との関係は1974年に終わり、その後はテレビへと路線変更をします。

テレビ版『座頭市』が大ヒットしましたが、100本作ったころには終わりを迎えました。

その後は巨匠の黒澤明からのオファーで『影武者』の主演がきたものの、撮影初日に監督と決裂して降板。

1980年には勝プロ製作で本人主演ドラマ『警視-K』は視聴率が低迷し打ち切りになりました。

さらには、1981年には勝プロが倒産。

1980年代は映画俳優としては『迷走地図』、『帝都物語』のみの出演になりました。

また、1986年には『座頭市』撮影中の現場で取り返しのつかない事件が起きてしまいます。

この作品でデビュー予定だった息子の奥村雄大さんが立ち回り中に、本来使用する予定の偽物の刀が「真剣」と入れ替わり、俳優の首に刺さり死亡事件を起こしてしまいました。

真剣を使用したことは世間から非難を浴び、映画製作中止を求める声も上がりました。

結果的には映画は公開をされ、事故が報道されたことで多くの人が作品上映を知ることになり、『座頭市』シリーズ史上最大の観客動員になりました。

勝さんの最後の映画出演作は1990年公開の「浪人街」。


昭和の銀幕スターの映画出演作品は全部で193作品です。

そのうちの178作品は大映が倒産する前の作品、1971年以降の出演は15作品のみでした。

勝新太郎を支えたのは妻の中村玉緒

数々の違法薬物騒動、映画の降板、勝プロの倒産、そして豪遊伝説、多額の借金、全てを支えたのが最愛の妻中村玉緒(なかむらたまお)さんです。

苦労ばかりの結婚生活だったと思われがちですが、愛くるしいエピソードが夫婦の間にはありました。

玉緒さんが高熱を出したときの話です。

寝ている彼女に勝さんが電話をかけてきて、大ファンである渡哲也さんが電話口で『くちなしの花』を歌ってくれたというのです。

妻のために、銀座のどこかの店で飲んでいるという渡哲也さんを一軒一軒探し回り、見つけた時には土下座をして妻のために歌ってほしいとお願いをしたそうです。

破天荒でも憎めない人柄を感じますよね。

また、玉緒さんはお金には恵まれなかったが、人には恵まれたと話しています。


借金返済や子供のために必死で働いたといいますが、そこでは素晴らしい人たちの出会い支えられたようです。

そして、勝さんに対してのおもいも述べています。

勝プロダクションの倒産、大麻事件、莫大な借金……。苦労は絶えませんでしたが、私は生まれ変わっても主人と結婚したいと思っています。

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