勝新太郎は兄・若山富三郎と仲良し、共演も息ピッタリ!父親と母親を敬愛&生い立ちは芸事漬け

豪快な人生を送った俳優の勝新太郎(かつしんたろう)さんは、兄・若山富三郎(わかやまとみさぶろう)
さんと非常に仲が良かったようです。

そのためか、共演しても息がピッタリで素晴らしい作品が出来上がったといいます。

勝さん達の父親と母親はどのような人だったのか、生い立ちも合わせて見ていきましょう。

勝新太郎のプロフィール

愛称:勝新(かつしん)

本名:奥村利夫(おくむらとしお)

生年月日:1931年(昭和6年)11月29日

死亡年月日:1997年(平成9年)6月21日

身長:170cm

出身地:東京都江東区

最終学歴:法政大学中学高等学校中退

勝新太郎と兄・若山富三郎は仲良しで共演しても息ぴったり

ここでは、勝新太郎さんと兄の若山富三郎さんの関係や共演について見ていきます。

兄・若山富三郎とはとても仲が良かった

勝新太郎さんには、同じく俳優をしていた兄の若山富三郎さんがいました。


兄弟の仲が非常に良いことで知られていましたね。

さらに見た目も性格もそっくりすぎた2人。

先に勝さんが売れていたことから、兄・若山さんにとって仕事上では不利だったかもしれません。

ただし、若山さんの方が仕事に対してとても丁寧で真摯だったようです。

勝さんはその反対で、豪快で大ざっぱな分「抜ける」ことがあったのだとか。

そのため段々と立場が逆転していきました。

老年期には若山さんの方が、仕事が増えたと言われています。

コツコツと努力をし続けると、後で大成する「うさぎとかめ」のパターンだったのでしょう。

さて、若山さんは、殺陣が最も優れた俳優といわれたそうです。

「殺陣」とは、いわゆる「チャンバラなどの演技や立ち回り」のこと。

時代劇などでは、殺陣が得意だと主要な役どころに抜擢されやすでしょうね。

数々の映画やドラマに出た若山さんですが、代表作は映画「子連れ狼」シリーズの拝一刀。

後輩やスタッフをとても可愛がり、「若山組」という集団が自然にできたそうです。

一方で短気な性格だったこともあり、気に入らない時には人を殴ってしまうことも。


カッとなると、感情が前面に出てしまって引くことができなくなるタイプだったのでしょう。

弟思いだった若山さんが倒れたのは、勝さんが麻薬関連で1991年に逮捕された頃でした。

執行猶予付きの判決を受けた時、「実刑を免れたお祝いに」と自宅で食事会を開いたそうです。

その時に突然倒れて、若山さんは急性心不全のために62歳で亡くなりました。

兄との共演は大好評だった

どれだけ名優が集結しても、仲が悪いとギクシャクした雰囲気は隠せないものでしょう。

その点、勝新太郎さんは兄の若山富三郎さんと大の仲良しでしたので問題はありませんでした。

映画で共演すると、息ぴったりの演技で観客を魅了したのです。

1962年公開の「続・座頭市物語」や1964年公開の「座頭市千両首」での共演は、ファンにとって忘れられない映画になっていることでしょう。

勝新太郎が敬愛していた両親

勝新太郎さんは父親と母親のことを、とても大事に思っていたようですね。

気持ちが強かったあまりに、びっくりするような行動をして世間を驚かせました。

父親は長唄三味線の杵屋勝東治

勝新太郎さんは、芸能関係の血筋を引いています。

父親は、杵屋勝東治(きねやかつとうじ)さん。


17歳で師匠になったそうです。

6歳から師匠のもとで長唄三味線の稽古に励みました。

男っぷりの良さなどが、息子の勝さんや若山富三郎さんに受け継がれたと言われています。

師事15歳で杵屋勝東治の名前を襲名し、17歳で師匠になったそうです。

歳を取っても、男らしい人でとても人気があったといいます。

父親は1996年に87歳でこの世を去りました。

勝さんは、父の死が辛すぎたのか、突飛な行動に出てしまいました。

納骨の際に、マスコミが集まる中で父の遺骨を泣きながら食べたのです。

お別れするのは悲しすぎるから、自分の体内に取り込むことで一つになれると思ったのでしょうか。

母親の逝去時の有り得ない行動

勝新太郎さんの母親は奥村八重子(おくむらやえこ)さんといいました。

一般人だったこともあり、エピソードはほとんどありません。

しかし強烈な話が1つだけあり、それだけで十分だと言えるでしょう。

母親が亡くなった時のことでした。


勝さんは横たわっている遺体に近づき、股間におもむろにキスをしまくったのです。

自分が生まれて来た部分に感謝の気持ちを込めて、思わず取った行動だったのだとか。

周囲にいた人達は、勝さんの行動に大変驚いたことでしょう。

勝新太郎の生い立ちは芸事漬け

勝新太郎さんは、父親が長唄三味線方だったことから自身も7歳の頃から習っていました。

長唄と三味線を学び、10代で長唄三味線の師匠になったそうです。

幼い頃から真面目に取り組んだからこそ、17歳で2代目杵屋勝丸を襲名することができたのですね。

芸名の「勝」という苗字は、この長唄三味線の名前を1文字取ったのでしょう。

師匠になってからは、深川の芸者に教えたこともあったのだとか。

芸能界に入ることになったきっかけは、アメリカに巡業中に名優のジェームス・ディーンと会ったこと。

「自分も映画俳優になりたい」と強く思うようになり、1954年に大映に入社しました。

幼い頃から芸事をしっかり身につけていたので、全く何もしていない素人とは違いますよね。

勝さんは、基礎があったことですんなりスターダムの道を歩むことができたのでしょう。


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