松任谷正隆(まつとうやまさたか)さんは、シンガーソングライター・松任谷由実さんの夫で、日本を代表する音楽プロデューサー、編曲家です。
自動車関係にも非常に精通しており、モータージャーナリストとしても活動されています。
ご実家は大変な良家で、非常に裕福なおぼっちゃまだったことでも知られています。
そんな松任谷正隆さんの若い頃や学歴について、YMOの細野晴臣さんらと活動していた伝説的なバンドについて、音楽家になるきっかけとなった吉田拓郎さんとの関係についてなど、お伝えします。
松任谷正隆のプロフィール
愛称:マンタ
本名:松任谷正隆
生年月日:1951年(昭和26年)11月19日
身長:172cm
出身地:東京都杉並区
最終学歴:慶應義塾大学文学部卒業
所属事務所:雲母社
松任谷正隆、若い頃の学歴まとめ
松任谷正隆さんのご実家は東京都杉並区で、祖父が大地主だったため裕福な家庭でした。
テニスコートや池がある豪邸に住み、何不自由なく暮らしました。
父親は東京銀行の取締役でした。
母方の家も造園業やゴルフ場施工の経営をしていて、経済的に裕福な家柄でした。
小学校は慶應義塾幼稚舎
松任谷正隆さんは、所謂ガチガチの「慶應ボーイ」です。
ラジオ深夜便…今回は松任谷正隆さん。チャキチャキの慶應ボーイだったんだ
— 羅杯屋 青宮 (@rahaiya) December 1, 2012
小学校から慶應に進学し、慶應義塾幼稚舎に通いました。
4歳の頃からピアノを習い始めていましたが、小学校に通う頃には耳で聞いたメロディーをピアノですぐ弾けるようになっていました。
ですが、ピアノのレッスンは嫌いだったそうです。
低学年の頃からパニック障害になってしまい、通学で乗っていた都電で気分が悪くなり、駅長室で休むことも多くあったそうです。
集団行動に馴染むことが難しく、小学校への登校を拒否していた時期もあったそうです。
中学は慶應義塾普通部
松任谷さんが通った中学は、慶應義塾普通部です。
入学すると、強制的にどこかの部活に入らねばならなくなり、松任谷さんはテニス部に入部しました。
しかたなくテニス部を選んで入ったためあまりやる気はなく、2年間在籍していましたが、ほとんど球拾いしかしていなかったそうです。
中学に入ると周りの友達がフォークなどの音楽を聴き始め、女の子相手に演奏をしてみせてキャーキャー言われている姿を、腹立たしく見ていたそうです。
なぜなら、自分は幼少期からピアノを習って絶対音感まで持っているからもっと上手くできるのに、と思っていたからだそうです。
それまでクラシックしか聴かせてもらえなかった松任谷さんは、初めてクラシック以外のレコードを買い、友達とフォークバンドを組みました。
ですが、勉強がおろそかになり成績が落ち、母親にバンドをやめるように言われてしまいました。
高校は慶應義塾高等学校
高校に入学すると、親に止められていた音楽熱が再燃しました。
バンジョーを買い、年上の大学生の仲間とバンドを組みました。
その頃、友人の部屋で遊んでいる時、その友人に女の子から電話がかかってきました。
友人から「この子はまだ中学生なんだけど、作曲もできてちょっとした有名人なんだ」と言われたのが、後に伴侶となる荒井由実さんでした。
初めて荒井由実さんの名前を聞いたのはこの時ですが、実際に会うのはもっと先の事でした。
高校でもまた音楽にのめり込み過ぎたために成績が落ちてしまい、親に5人もの家庭教師をつけられていまいました。
大学は慶應義塾大学文学部
高校での成績が落ちていたため、内部進学できるとすれば文学部しかない、と文学部を選びなんとか進学できたそうです。
ですが、小学校低学年から患っているパニック障害がまだ治っておらず、将来を考えても会社員になる事に不安を抱えていたそうです。
学校の先生という選択肢もよぎったそうですが、自分で音楽の才能があるのはわかっていたので、そちらに進みたいという気持ちもあったそうです。
そんな中、友達の手伝いでピアニストとして音楽コンテストに出た際、後にサディスティック・ミカ・バンドなどで活躍する加藤和彦さんに声をかけられました。
加藤さんは審査員の一人としてコンテストに来ていて、松任谷さんのセンスに目をつけたのでした。
そこからプロのミュージシャンになるきっかけを作りました。
大学も無事に卒業まで、なんとか進むことができました。
細野晴臣らと結成した伝説のバンド、ティン・パン・アレー
松任谷正隆さんは、YMOのメンバーとしても世界的に知られる細野晴臣さんとバンド活動をしていました。
1973年に結成しバンドは当初「キャラメル・ママ」と名前をつけましたが、1974年に「ティン・パン・アレー」にバンド名を変えました。
メンバーは松任谷さん、細野晴臣さん、はっぴいえんどの鈴木茂さん、ドラマーの林立夫さん、キーボーディストの佐藤博さんです。
ティン・パン・アレーは一般的なバンドは違い、音楽プロデューサーの集団、という感じでした。
ティン・パン・アレーが演奏参加をしたり、プロデュースを手掛けたアーティストは、荒井由実さん、矢野顕子さん、吉田美奈子さんなど、錚々たるメンバーでした。
また、テレビドラマ「はぐれ刑事」や映画「宵待草」などの音楽も担当しました。
各メンバーが多忙になるにつれて集まることが困難になり、1970年代後半には自然消滅してしまいました。
吉田拓郎との交流
松任谷正隆さんが吉田拓郎さんと出会ったのは、まだプロミュージシャンになるかどうかの境目のような時でした。
音楽コンテストに出場した際に声をかけられたプロデューサーの加藤和彦さんが吉田拓郎さんの「結婚しようよ」のアレンジをしていて、そのレコーディング現場に松任谷さんを呼びました。
松任谷さんは、オルガンとバンジョーでレコーディングに参加。
当時はまだ20歳という若さでした。
それ以降松任谷さんと吉田拓郎さんは交流を深め、松任谷さんの結婚披露宴などにも参加されています。
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