はっぴいえんど、イエロー・マジック・オーケストラの中心人物であり、楽曲提供者・プロデューサー・ レーベル主宰者としても長く活躍してきた細野晴臣(ほそのはるおみ)さん。
時代を超えてリスペクトされ、世界規模で天才と称されるゆえんはどこにあるのでしょう。
大瀧詠一さん、松本隆さんらとともに在籍した伝説的フォークロック・バンドのはっぴいえんどや、はっぴいえんど解散理由、かつて住んでいた埼玉県の狭山アメリカ村についてまとめました。
細野晴臣のプロフィール
本名:細野晴臣
生年月日:1947年7月9日
身長:170 cm
出身地:東京都港区
最終学歴:立教大学社会学部観光学科
所属事務所:ミディアム
細野晴臣が天才と呼ばれる理由
ロックのメロディーに日本語をのせたはっぴいえんどやテクノポップの先駆けとなったYMO、さらにはジブリをはじめとする映画音楽まで、時代時代の音楽シーンを常にリードしてきた細野晴臣さん。
1970年頃からの日本のポップミュージックを振り返ってみると、この方がさまざまな局面に登場するのがわかります。
80年代には松田聖子さんや中森明菜さんなどトップアイドルに楽曲を提供。
その後は作曲家・プロデューサー業と並行してのソロ活動や他のアーティストとのユニット活動。
かつてアメリカの音楽に魅了され、それを追いかけるようにしてはじまった細野さんの音楽が、今は逆に海外から求められているという現象は、ある意味で不思議な感じもします。
細野晴臣、2019年USツアーのライブアルバム&映像作品BOXセットのトレイラー映像公開(動画あり)https://t.co/awkmvewMFJ
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— 音楽ナタリー (@natalie_mu) December 25, 2020
デビュー50周年を迎えた2019年は、さまざまな企画や記念イベントが目白押しでした。
メディアへの露出が激増し、お祭り騒ぎの1年になりましたが、当の本人はひょうひょうと「巻き込まれ型の50周年」と微笑むばかり。
言い換えれば、周りが細野さんを放っておかなかったということでしょう。
半世紀を超える音楽活動で改めて驚かされるのは、その大胆にして柔軟な音楽性の変化です。
日本語ロックを構築したはっぴいえんど、エキゾチックな音楽を探求したハリー細野時代、国際的な活動を展開したテクノミュージックのYMO、YMO散開(解散)後のワールドミュージック、アンビエントへのアプローチ。
そもそもYMO結成のきっかけも、ベースギターの音を電子音で表現したいという細野さんのアイデアでした。
卓越したプロデュース能力とアイデアの持ち主であることは疑いようがありませんが、細野さんの場合、天才的なプレイヤーでもあったためにミュージシャンの道を選んだという印象が強いですね。
一般的にはベーシスト、またはキーボーディストのイメージがありますが、じつはギター、ピアノ、ドラムス、ヴィブラフォーン、三味線などもお手のもの。
どうやって鳴らすのかもわからないような民族楽器を細野さんに渡したら、翌日にはマスターしていたという細野伝説も残っています。
長きにわたり、国内の後続アーティストのみならず世界中から熱いリスペクトを集めているレジェンドということを考えれば、天才と称されるのも過大評価ではないでしょう。
細野晴臣・大瀧詠一・松本隆を輩出したはっぴいえんど解散理由
はっぴいえんどは細野晴臣さん、大瀧詠一さん、松本隆さん、鈴木茂さんが在籍していた日本のロック草創期のフォークロック・バンドです。
解散後の個々の活動を含めると、彼らが日本のロック、J-POPに与えた影響の大きさははかり知れませんね。
彼らほど「ロックを日本語でやるなんて」と糾弾され、議論され、再評価されてきたグループは他にないといっても過言ではないでしょう。
若い時の特徴がよく出てる。 #はっぴいえんど pic.twitter.com/wDth1TzwUR
— 里芋☆実験4号 (@satoimo23) January 12, 2021
活動していた70年代、はっぴいえんどはけっして知名度が高かったわけではなく、商業的にも成功しているとはいえませんでした。
日本語ロック論争や解散後のメンバーたちの華々しい活躍のおかげで、早い時期から日本語のロックを実践していたバンドとして注目され、先駆者としての評価が高まった経緯があります。
短命のバンドでもあり、1970年8月にデビューアルバム『はっぴいえんど』をリリースしてから解散まで、わずか2年4か月。
発表したオリジナルアルバムは3枚のみ。
ラストアルバム『HAPPY END』は解散後のリリースとなりました。
はっぴいえんどが正式に解散したのは 1972年12月31日のことです。
解散について広く知られているのは、松本隆さんが語ったエピソード。
ある日、英語の文字で埋まった細野さんのノートを見て、何を書いているのかと訊ねた松本さん。
返ってきたのは「バンド名」という言葉でした。
今、はっぴいえんどというバンドを一緒にやっているのに、リーダーは次のバンド名を考えていたわけですね。
松本さんの話によると、解散は細野さんと大瀧さんの決定によるもの。
この二人の確執が解散の理由とみる向きもありますが、これについては「ケンカはしたようだけれど、聞いてもごまかされて真相はわからなかった」とのこと。
一方の細野さんはインタビューで、セカンドアルバム『風街ろまん』でひとつの完成形をみたことで当初の目的を果たし、解散を決意したと語ったことがありました。
#はっぴいえんど を聴きながら帰宅中になりがち pic.twitter.com/y3WPrjjzSp
— takashi kosuge (@sptz5xv9) January 17, 2021
解散を望んだメンバーと、解散したくなかったメンバーがいたのは確かなようですが、その後の彼らのつきあい方を見るかぎり、修復不可能なレベルの決定的な仲違いではなかったように思えます。
元メンバーの証言についても、時の流れに伴う感情の変化や記憶違いがあるかもしれません。
解散理由はひとつではなく、複合的な理由であり、建設的な解散だったのではないかと思います。
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— TOWER VINYL(タワーヴァイナル) (@towervinyl) January 16, 2021
細野晴臣が住んでいた狭山のアメリカ村
実生活では引っ越しマニアで有名な細野晴臣さん。
はっぴいえんど解散後に移り住んだ家は、埼玉県のジョンソン基地跡地にほど近い狭山アメリカ村の米軍ハウスでした。
日本初の宅録といわれる1973年のソロ第1作『HOSONO HOUSE』は、この自宅で録音された作品です。
以前からFEN放送を聴き、アメリカの最新音楽をいち早く吸収していた細野晴臣さん。
当時はアメリカ村を生活拠点にするアーティストが数多く存在しました。
大瀧詠一さんも福生の米軍ハウスに転居し、住居とは別にもう一軒の家を借りてレコーディングスタジオに改造しています。
アメリカの音楽に憧れ、擬似アメリカンライフの中に身をおいた自身の行動について、自虐的に「若気の至り」と振り返る細野さん。
細野さんが住んでいた時代からすでに50年近くたっており、現地の風景はたいぶ変わってしまったのではないでしょうか。
音楽シーンに多大な影響を与え続けてきた巨人でありながら、軽やかな旅人のようでもある細野晴臣さん。
変幻自在で自由な旅はこれからも続きそうです。
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