25歳という若さでこの世を去った幻のレーシングドライバー、故・福澤幸雄(ふくざわさちお)さん。
日本人ならば誰もが知っている、一万円札でお馴染みの福澤諭吉のひ孫にあたる人物です。
彼は短くも波乱万丈な生涯のなかで、ある二人の美女と恋に落ちたといいます。
今回は、福澤さんが愛し愛された二人の女性について、また、当時の事故や妹さんについても振り返ります。
福澤幸雄のプロフィール
愛称:サチオ
本名:福澤幸雄(ふくざわさちお)
生年月日:1943年(昭和18年)月日
身長:170cm
出身地:フランス・パリ
最終学歴:慶應義塾大学法学部政治学科
福澤幸雄は小川知子と交際していた
福澤幸雄さんと聞いてピンとくる人は、今はもう少ないかもしれません。
彼は1969年2月12日に25歳という若さでテスト・ドライブ中の事故によりこの世を去りました。
もしも、あの時に亡くなっていなければ、レーシングドライバーとしてはもちろんのこと、実業家やファッションリーダーとして存在感を示し続けていたことは間違いないと言えるでしょう。
そんな福澤さんは、当時、アイドル歌手として人気を集めていた歌手で女優の小川知子さんと付き合っていたといいます。
正確にいつ頃から交際していたのかまでは今となっては判然としませんが、小川さんが18歳の頃に出会ったようです。
出会いは、多くの芸能人や著名人が出入りしていたことで知られる東京・麻布の有名なイタリア料理店「キャンティ」だったといいます。
小川さんは1949年1月26日生まれですから、18歳だった頃というと1967年あたりということになります。
1969年に福澤さんが亡くなるまで、2年間ほど付き合っていたということでしょうか。
ところで、当時の恋人・小川さんと福澤さんの事故死を巡っては、ちょっとした伝説があるのです。
アイドル歌手だった小川さんは、1969年1月21日に自身4枚目のシングルとなる『初恋のひと』をリリースしました。
その直後となる2月に恋人の福澤さんが非業の死を遂げたことにより、思いがけず注目を浴びることになってしまった小川さん。
2月24日に生放送されたフジテレビの大人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」にて『初恋のひと』を歌ったのですが、曲の途中で感極まり2番が歌えなくなってしまったのです。
2024年現在、残念ながら当時の映像はネット上に公開されていませんが「泣き崩れた」と表現されることが多いので、彼女の悲しみの深さが窺えますね。
一方で、発売直後の売れ行きが芳しくなかったという『初恋のひと』は、福澤さんの事故死によってレコードの売り上げ枚数が急上昇し32万6千枚を超えるヒットを記録。
小川さんのデビュー曲『ゆうべの秘密』に次ぐ代表曲となりました。
このヒットがきっかけとなり、その年の「第20回NHK紅白歌合戦」へ2年連続出場することになったのでした。
一説によると、福澤さんの事故直後というタイミングでの「夜のヒットスタジオ」における『初恋のひと』の歌唱は、予定になかったものを急遽ねじ込んだ特番的扱いだったといいます。
ひとの不幸に付け込むようなやり方は、当時でも批判されたといいます。
現在でも追悼番組など同じような手法は度々見かけますが、恋人が死亡して間もない時期に生放送でラブソングを歌わせるとは、今なら確実に炎上案件ですね。
とはいえ、歌うことを最終的に決意したのは小沢さんですし、1969年5月には、5枚目のシングルとして思わせぶりなタイトルの『恋のなごり』をリリースしています。
この曲が福澤さんの死を意識した作品かどうかは明言されていないようですが、ここに直接掲載することは出来ないものの、歌詞を見れば連想させられるものがあります。
また、翌1970年には8枚目のシングル『思いがけない別れ』で「第21回NHK紅白歌合戦」への3年連続出場を果たしました。
こちらは単なる失恋ソングに聞こえますが、やはり、恋人の事故死の翌年というタイミングでリリースした楽曲のタイトルとしては、意識せざるを得ないように思われます。
さらに、1973年にはレースの世界を題材にしたドキュメンタリー映画『マカオ・グランプリ』を小川さん自らが監督、出演で制作。
主題歌まで自身で歌い17枚目のシングル『さよならマカオ』としてリリースし、B面のタイトルは『走りのテーマ』です。
すこし言葉は悪いかもしれませんが、小川さん自身も少なからず恋人の死に便乗したと言われても仕方がないようにも思えます。
二人が結婚していて夫が亡くなったのならまだしも、若くして亡くなった恋人だったのですから、ちょっとやりすぎのようにも感じられますね。
もう一人の恋人・松田和子
福澤さんにはもう一人の恋人・松田和子さんがいました。
松田さんについての詳しい情報は残されていないものの、ピーターと呼ばれる美人モデルだったそうです。
日本人女性初のパリコレ・モデルだったと言われています。
出会いは、またもや「キャンティ」だったそうです。
講談社の雑誌「贅沢な人生。〔セオリー〕2009 vol.1」にて、松田さんが「幸雄はパリに来ると、私のアパートに泊まってた」「昭和39年に来た時は白い中古のアルファロメオを買いにスイスまで行った」などと語ったとされています。
なので、1964年頃には付き合っていたと思われます。
また、同雑誌にてザ・テンプターズのボーカル・萩原健一さんが「彼が23歳から25歳まで、2年ばかりの付き合いだった」「福澤さんの運転で恋人だった松田知子さんとトヨタ・コロナで3人で出かけた」とも語ったそうです。
ということは、小川さんと付き合う直前に別れたか、もしくは交際期間が多少重なっていたのでしょうか……?
残念ながら判然としません。
やはり、福澤さんと小川さんの交際期間はそれほど長くなかったと思われますので、小川さんがビジネス面で福澤さんを利用しすぎているという見方は、あながち間違ってはいないと言えるのではないでしょうか。
事故原因は不明のまま
福澤さんは1969年2月12日に「トヨタ・7」をテストドライブ中に事故で亡くなりました。
事故が起きたのは静岡県袋井市にあるヤマハテストコース。
このコースは当時完成したばかりで、2月10日のコース開きからなんと僅か2日後の出来事だったのです。
事故当時、福澤さんがドライブしていたのは5リッター用の試作ボディを3リッターのシャシーに被せた完全テスト仕様の車両。
ホームストレートから1コーナーにかけて制御を失い、コースわきの標識の支柱に激突し炎上するという悲惨な最期でした。
福澤さんは即死で、衝突時には既に亡くなっており生きたまま焼かれることは無かったとされています。
一方、事故の原因については不明とされており、福澤さんのドライビングに問題があったと主張するトヨタ側と、車両に問題があったとする遺族側で法廷闘争に発展し、和解が成立するまで10年以上かかったのです。
1981年にトヨタ側が遺族に対して6,100万円を支払うことで和解しましたが、事故原因は不明のまま迷宮入りとなってしまいました。
妹は福沢エミ
福澤さんにはエミさんという妹がいます。
福沢エミという芸名で活動していた方で、ムッシュかまやつこと、かまやつひろしさんとのデュエット曲『ノー・ノー・ボーイ』がリリースされています。
福澤幸男さんといい、かの福澤諭吉の子孫は多才な人ばかりなんですね。
エミさんの歌声を聴いていると、歴史上の人物として捉えられることが多い福澤諭吉が、なんだか急に身近に感じられますね。
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