志村正彦(しむらまさひこ)さんは、ロックバンド・フジファブリックのボーカル・ギターとして活動していました。
2009年12月24日に自宅で亡くなっているのが発見され、悲しみの声が多く上がりました。
そんな志村さんの死因や性格についてなど、お伝えします。
志村正彦のプロフィール
本名:志村正彦
生年月日:1980年(昭和55年)7月10日
没年月日:2009年(平成21年)12月24日
身長:172cm
出身地:山梨県富士吉田市
最終学歴:山梨県立吉田高等学校卒業
志村正彦の死因は公表されていない
2009年12月25日、フジファブリックの公式サイトに志村正彦さんが12月24日に亡くなっていたことが公表されました。
29歳という若さで、あまりに突然の訃報に信じられないというファンや、悲しみの声を上げる方々が多くいました。
フジの志村正彦が死んだ・・・クリスマスの日にそりゃないよ・・・。
— ミツ@アイリフドーパ 5/8 (@MITZ_T666) December 25, 2009
当初、バンドのホームページでは「病名(死因)不詳」と書かれてあり、所属レコード会社も「現時点では公式ページに掲載している以上の情報はない」といったスタンスでした。
あまりにも情報がないため、「病気を患っていた」や「薬物ではないか」「自殺したのではないか」といった憶測が流れました。
発見された状況は、前日から志村さんと連絡が取れなくなっていたためバンドのマネージャーが自宅を訪れたところ、パソコンの前ですでに亡くなっていたそうです。
志村さんは死去14日前にブログを更新しており、その内容は皮肉にも「体調がかなり良好です」という内容でした。
「ツアーをすると絶対風邪をひいていたのに、今年はひいてないので逆に年末に風邪をひきそうで怖い」といったことも書かれており、死去を予知していたのでは、といった憶測さえありました。
ですが、ブログに書かれていることが本当だとすると、いつも以上に体調は良かったようですので、なおさら「どうして」と死因に関して謎が深まるばかりです。
死去の前々日には所属事務所の忘年会にも出席していたと言われており、その時も体調に変化は見られなかったそうです。
バンドとして最後に舞台に上がったのは、死去から11日前の2009年12月13日、Zepp Tokyoで行われた「tacica ’09三大博物館」というイベントでした。
バンド・tacica主催の対バンイベントで、tacica、フジファブリック、トライセラトップスの3バンドによるライブが行われ、それが志村さんにとって最後のライブ出演となりました。
その日の演奏も素晴らしく、志村さんにいつもと変わったところはなかったそうです。
イベントで共演したトライセラトップスの和田唱さんは志村さんの死去が公表された翌日の12月26日にブログを更新し、志村さんに対して「どうして」という想いと、感謝を綴りました。
どうしてこんなに早く行っちゃったんだい、シムシム?いくらなんでも早過ぎるだろ?
そのブログ投稿から約1週間後の2010年1月3日、死因に関して関係者に話を聞いたことが追記されました。
和田さんによると、志村さんに近い関係者に話を聞かれたそうですが、やはり死因に関してはわからない状態だったそうです。
そして、ハッキリ言えるのは憶測として流れているような自殺ではなかった、ということを強調していました。
最後には「一刻も早く死因が解明されることを願ってます」と締められていました。
一説では不整脈が死因ではないか、とも言われています。
志村さんはストイックな性格が祟り生活が不規則で、そのために体調の優れないことが多かったそうです。
20代前半の頃に比べると、亡くなる前の数年間はかなり痩せていたことも明らかになっています。
ですが、志村さんの死去から約15年が経った2024年現在でも、死因の特定には至っていません。
そうか…今日はイブか…
志村正彦の命日だ— ESBZIL_Moto (@ES_Motok2) December 24, 2023
今でもクリスマスイブになると、志村さんの死去を偲ぶ声が多数投稿されています。
天才肌で性格は真面目
志村正彦さんは「天才」と呼ばれるタイプでした。
ただし、いわゆる「音楽が降って湧いてくる」という方の天才ではなかったようです。
過剰なまでにストイックで、自分の中にある音を追求するためなら他のことを全て犠牲にしてしまうような、圧倒的な集中と熱量で常人では作れないものを作り出す方の天才でした。
自分らしい歌詞を書くために、僕は結婚していないし、彼女もいない、とも言えるんです。バンドの中身、つまりは歌詞に込めたメッセージに伴う自分になるために、自分を変えていったというか…。
— フジファブリック志村正彦bot (@Shimura__10) April 2, 2023
フジファブリックはメンバー全員が作曲をしますが、志村さんは同じバンドメンバーが良い曲を書いてくると、喜ぶどころか悔しがっていたそうです。
また、真面目で考えすぎるあまりパニック発作を患ってしまうほどだったそうで、飛行機や電車にも乗れない時期もあったそうです。
インタビューでは「こんなことで一生やっていけるのか?と思う」とも語るほどでした。
また、生前最後に発表されたアルバム「CHRONICLE」についてのインタビューでは、アルバムが完成するまでは死ねないと思って普段は食べないものを食べないようにしていた、とも語っていました。
そういったストイックな性格はミュージシャンになる前からだったそうで、学生時代も学校で習った授業の内容は忘れないために頭の中で振り返るクセをつけていたそうです。
高校時代には卒業後に上京するための資金をバイトをかけもちして自分で稼ぎ、引っ越し費用や当面の生活費も用意していました。
バイト先でも「社員にならないか?」と言われるほど、ちゃんとした働きぶりだったそうです。
きっと音楽家にならずに一般企業で働いていたとしても、おそらく仕事のできる方だったのではないでしょうか。
高校時代から音楽家志望だった
志村正彦さんは高校時代から将来は音楽家になりたいという、はっきりとした意思を持たれていたそうです。
中学校までは野球少年だったという志村さん。
友人に誘われて行った奥田民生さんのコンサートを見て、音楽家になる事を決めたそうです。
奥田さんは、志村さんの死去4日後、『カウントダウンジャパン』に出演。
フジファブリックの「茜色の夕日」をカバーしています。
当時は、涙を流していたことが話題になりました。
もしもそんな志村さんが生きていればどのような作品を作り出していたのか、多くの人が聞きたいと願っているのではないでしょうか。
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