森繁久彌の息子・養女&家族まとめ。結婚した妻は?邸宅がマンションに?

2009年11月10日、老衰のため96歳で他界した森繁久彌(もりしげひさや)さん。

映画やテレビでの活躍はもとより、ミュージカル黎明期から『屋根の上のヴァイオリン弾き』のロングラン公演を行って、日本にミュージカルを定着させた大功労者です。

まさに国民的名優の森繁久彌さんの家族はどんな人達だったのか、興味がありますね。

この記事では息子や養女をはじめ、妻との結婚、「森繁御殿」と呼ばれた邸宅についてお送りします。

森繁久彌の二人の息子

森繁久彌さんには息子が二人います。

長男は1941年1月7日生まれの森繁泉(もりしげいずみ)さん。

俳優として活動していた時期があり、映画『空と海の結婚』などに出演していました。


俳優引退後は東広島市にある賀茂カントリークラブの社長に就任。

1999年1月23日に肝臓がんのため58歳の若さで亡くなっています。

森繁久彌さんの葬儀で喪主を務めたのが次男の建(たつる)さん。

兄の後任として賀茂カントリークラブの社長をしばらく務めていました。

葬儀にあたっては、「最後は父として送ってやりたかった」という思いがあり、家族葬に近い密葬形式になったそうです。

刊行された『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』は、次男・建さんと長女・昭子さんの対談共著です。

森繁久彌と養女・クラーク桂子の感動エピソード!

文化放送で1964年から1967年まで放送された『今晩は森繁久彌です』は、森繁久彌さんがリスナーのお便りを紹介し、語りかけるという内容で人気を集めました。

ある日、10代の女性がこのラジオ番組に投稿します。

投稿者・小関桂子さんの父親は黒人兵士で、母親は出産後に行方知れずになっていました。

子供のいない家庭に引き取られた桂子さんの悲惨な境遇に森繁久彌さんはショックを受け、彼女の面倒をみることになります。

桂子さんはその後、アメリカのクラークという男性と恋に落ち、結婚のための渡航手続きにアメリカ大使館へ。

ところが、パスポートもビザも発行できなかったのです。

さすがの大使館も折れて、やがて桂子さんが渡米する朝がきました。

森繁夫妻は、この日のために振袖を用意していたそうです。

その後桂子さんはカリフォルニアで幸せに暮らし、3人の子供に恵まれました。

無償の愛という言葉がありますが、森繁久彌さんのこの行為は、まさに親が我が子を愛する行為と同じですね。

次男の建さんは「父はお父さんを2歳で失っているため、理想の父親像を実践していたのではないか」と話しています。

森繁久彌の家族&結婚は?

「森繁久彌」は本名ですが、もとは「菅沼」姓で、2歳の時に父親が他界。

7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「森繁」姓となりました。

戸籍上の養父は南海電鉄の鉄道技師だった森繁平三郎さん。

実の父親は明治時代の実業家・菅沼達吉さん。

森繁久彌さんは、菅沼達吉さんと馬詰愛江さんの間に3人兄弟の末っ子として生まれました。

達吉さんが三菱財閥三代目総帥・岩崎久彌男爵と親交が深かったことから命名されたそうです。


森繁久彌さんは1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中に出会ったに満壽子さんと結婚しています。

1990年には妻・満壽子さんに、1999年には長男・泉さんに先立たれています。

森繁久彌の邸宅はマンションになっている?

長男・泉さんが手がけていた事業の清算のため、世田谷区船橋にあった邸宅を売却した森繁久彌さん。

売却後は跡地に建設されたマンションの一室に住んでいました。

かつて敷地面積700坪の土地にあった邸宅は、通称「森繁御殿」と呼ばれていたそうです。

長年船橋に居住しており、世田谷区の名誉区民でした。


小田急線千歳船橋駅北口から商店街を抜けて邸宅跡まで続く道は、一周忌を前にした2010年10月、世田谷区より「森繁通り」と正式に命名されました。

元NHKアナウンサーであり、名優であり、歌手でもあった森繁久彌さん。

元祖マルチタレントと言うべき存在かもしれませんね。

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