フランキー堺の息子、晩年について。自宅豪邸とドラムの腕前、写楽への情熱

日本を代表するコメディアンだったフランキー堺(ふらんきー さかい)さん。

軽妙洒脱な芸で知られると同時に、映画『私は貝になりたい』では、性格俳優としても高く評価されました。

今回はフランキーさんの息子、晩年、自宅の詳細を見ていきます。

またドラムの腕前、写楽研究者としての一面をご紹介しましょう。

フランキー堺のプロフィール


本名:堺正俊

生年月日:1929年2月13日

死没:1996年6月10日

身長:不明

出身地:鹿児島県鹿児島市

最終学歴:慶應義塾大学法学部

フランキー堺の息子

まずフランキーさんの息子についてです。

彼の妻は日劇ダンシングチームのダンサーだった、谷さゆりさん。

日劇のステージで出会った2人は結婚し、二男一女をもうけました。

長男の俊哉さんは、父と同じく慶応義塾大学へ進学。

その後、推理作家の和久俊三さんの娘と結婚しています。

一族で出演した『わが輩ははなばな氏』では、親子共演を果たしました。

次男の大祐さんは一般人ですが、やはり慶応義塾大学を卒業し、富裕層の女性と結婚したそうです。

妻の母親が、慶応義塾を設立した福沢諭吉の曽孫と噂されています。


またフランキーさんの娘は、慶應義塾大学病院で副院長の秘書を務めたそうです。

堺一家は、慶應に縁のある一族だとわかりました。

コミカルな彼の雰囲気とは裏腹に、エリート一族だったといえるでしょう。

ちなみに、「リリー・フランキーさんが息子では?」と考える人もいるようです。

しかし両者に血のつながりはありません。

リリーさんの本名は「中川雅也」さんといいます。

芸名は、「性別や国籍がわからない名前がいい」と考え、思いついた名前でした。

ちなみに「フランキー堺」の由来は、一説では彼が洗礼を受けた際に授かったクリスチャンネームだそうです。

いずれにせよフランキーさんの実子たちは、芸能界にそこまで深くかかわっていないことがわかりましたね。

若かった晩年、死因は肝不全

フランキーさんは、1996年、67歳の若さで亡くなっています。

2年前に紫綬褒章を受章し、長年の功績が讃えられた矢先の死でした。

大阪市内のホテルにて吐血、緊急入院して3日後に亡くなったそうです。

死因は肝不全でした。

肝不全はウイルス性のものや、アルコールを原因としたものなどがあります。

フランキーさんはどちらだったのか不明ですが、前年から調子が悪かったそうです。

体調不良でも仕事をこなし続けた結果、死期を早めてしまったのかもしれません。

天才コメディアンの早すぎる死に、日本中のファンが悲しみに暮れました。

フランキー堺の自宅豪邸

フランキーさんの自宅は、東京の一等地である上目黒にありました。

一流芸能人が数多く暮らす、高級住宅街だったそうです。

閑静な住宅街に暮らしていたそうですから、一般人が暮らす地域とは離れたエリアに豪邸を構えていたのでしょう。

当時を知る人の声に、東横線の中目黒駅からのぞめる丘の上に、ひときわ目立つ青緑の屋根が見えたというものがありました。

当時としては珍しい、セメント素材の「スレート瓦」による洒落た屋根だったようです。

一流芸能人にふさわしい邸宅に暮らしていたことがうかがえますね。

フランキー堺のドラムの腕前

フランキーさんは元々、ドラマー出身です。

大学時代、バンド「シックスレモンズ」のジャズドラマーとして、進駐軍のキャンプで演奏していました。

芸名のフランキーも、進駐軍に理解しやすいよう生み出した芸名でした。

そして築地のクラブで演奏中、喜劇俳優の伴淳三郎さんと知り合い、俳優デビューにつながったのです。

映画『嵐を呼ぶ男』で石原裕次郎さんのドラム演奏を吹き替えたという噂もありました。

フランキーさんを、単なる脇役俳優やタレントとして認知していた人にとって、驚きの真実でしょう。

彼のドラム技術は一流で、「プロ並み」ではなく、正真正銘の「プロ」だったのです。

写楽への情熱

マルチに活躍したフランキーさんですが、実は東洲斎写楽の研究に没頭したという一面もあります。

小説『写楽道行』では、謎に包まれた写楽の素顔をひも解こうと試みていました。

また1995年には自ら企画、総製作指揮を担当した映画『写楽』を製作。

写楽の絵を出版した蔦屋重三郎の役で出演も果たしました。

フランキーさんはなぜここまで写楽に入れ込んだのでしょう。

おそらく彼は、「職人」としての写楽に惹かれていたのではないでしょうか。

自身もドラマーとして腕を磨き、その後はコメディアンとして芸を磨き続けた「職人型」。


フランキーさんは頭の中で、写楽を実直な職人として想像し、自身と重ねさわせていたのかもしれません。

とことん芸を追及し続けたフランキーさん。

「職人」として、芸にすべてを捧げた人生だったといえるでしょう。

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