一般家庭に生まれながら、数々の苦難を乗り越えて当代一の女形となった坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)さん。
歌舞伎の枠を超えて、世界の芸術家たちとも多彩なコラボレーションを展開していますね。
今回は、歌舞伎役者の道を歩むきっかけとなった幼少時の病気や、その性格についてみていきます。
三島由紀夫さんや海老蔵さんとの関わりのほか、女形へのこだわりもあわせてお送りします。
坂東玉三郎は病気のおかげで歌舞伎の道へ?
わずか1歳の時に小児麻痺を発症した坂東玉三郎さん。
その後遺症のリハビリとして舞踊を習い始めたそうです。
やがて舞踊の魅力にとりつかれ、3歳か4歳の頃には本格的に稽古に励むようになりました。
縁あって6歳で名優・十四代目守田勘彌さんに弟子入りしたあと、1957年、7歳の時に『菅原伝授手習鑑・寺子屋』で「坂東喜の字」を名乗り初舞台。
1964年に守田勘彌さんの芸養子に迎えられ、「五代目坂東玉三郎」を襲名しました。
生家が料亭だったこともあり、幼い頃から舞踊や三味線の音色には慣れ親しんでいたのかもしれませんね。
坂東玉三郎はどんな性格?
当代一の名女形といわれる坂東玉三郎さん。
とりわけ若い頃の妖しい、不思議な美しさは忘れることができません。
そんな坂東玉三郎さんですが、自身についてはこう語っています。
私は姫が似合わない性格、体つきで、役柄的に姫がたいへん苦手と言われた役者です。
それを制覇しなければと勉強してまいりました。
また、坂東玉三郎さんの性格を物語るエピソードとして、こんなこともありました。
市川海老蔵さんの暴行被害事件の際、「海老蔵さんに何か言うことはありますか?」との質問に対し、
「言うことがあればご本人に直接言います。」
ときっぱり。
男らしい対応に胸のすく思いをした人は多いでしょう。
自分はいかにもB型らしい性格と分析していたこともありました。
筆者の個人的な見解ですが、坂東玉三郎さんは意外と男らしい性格で、我が道を行くタイプなのではないかと思います。
三島由紀夫が坂東玉三郎を大絶賛!
三島由紀夫さんが19歳の坂東玉三郎さんを抜擢した『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、三島由紀夫さんにとって最後の歌舞伎作品となりました。
白縫姫を演じた坂東玉三郎さんは絶賛され、出世作となります。
三島由紀夫さんは、坂東玉三郎さんの出現を奇跡と称していたそうです。
坂東玉三郎さんは、生前の三島由紀夫さんから「君がやるべき作品」として戯曲『サド侯爵夫人』への出演を打診され、完成したばかりの本を贈られていたそうです。
その舞台が実現したのは1983年のことでした。
坂東玉三郎、海老蔵に「おい!」
2020年に「十三代目市川團十郎」を襲名する予定でしたが、コロナの緊急事態宣言のため延期を発表した海老蔵さん。
海老蔵さんを幼少時から知る坂東玉三郎さんとしては、まだ子供のイメージが拭えないのだとか。
あちらは敬語を使いますけど、私は江戸弁で対応しております。
『おい!』みたいに。
彼には直言がいいんです。
配慮してると真意が伝わらないから。
歌舞伎の元祖、市川宗家の海老蔵さんに遠慮なく苦言を呈することができる、数少ない大先輩なのでしょうね。
坂東玉三郎の女形へのこだわり
女形とは、歌舞伎で女性の役を演じる男性の役者をいいます。
女方とも書きますね。
よく、男性が演じる女性役が本物の女性より色っぽく見えたり、美しく見えたりすることがあります。
歌舞伎ではありませんが、「下町の玉三郎」こと梅沢富美男さんもそうですね。
「女より女らしい」という錯覚を生ませることついて、坂東玉三郎さんはこう分析しています。
それは良い意味での妄想だと思います。
それはきっと、女形が「作品」だからこそよく見えるのでしょう。
女形が女よりも女らしいということは、ありえないことです。
実際は、女よりも男に近いわけですから。
しかし、作品として、そういうことが言えることもあるとすれば、それは、作品に対する女形の想いが、そう見せるということではないでしょうか。
女形がたんなる女装ではなく、女姓のニュアンスを醸し出すためには、物真似ではなく心の眼で見て感じた結果を表現することが大切なのだそうです。
昭和の一時代を築いた作家たちも、その美しさを認めた坂東玉三郎さん。
引退をほのめかす発言は衝撃的でしたが、自らの引き際を考えているのは当然のことでもあります。
坂東玉三郎さんの舞台を見ることができなくなる日は必ず来ます。
人気役者の引退は歌舞伎の歴史の中で繰り返されてきたこととはいえ、残念ですね。
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