田宮二郎の妻、女優・藤由紀子との馴れ初め。死因と遺書について。元麻布の自宅は解体

「白い巨塔」の財前五郎役があまりにも有名な田宮二郎(たみやじろう)さん。

早逝したことも相まって今や伝説の俳優となっています。

田宮二郎の長男(柴田光太郎)プロフィール

本名:柴田光太郎

生年月日:1966年1月13日

出身地:東京都

最終学歴:学習院大学大学院

所属事務所:ブレイブ

田宮二郎の妻、女優・藤由紀子との馴れ初め

大学在学中の1955年に「ミスターニッポンコンテスト」で優勝し大映入りした田宮二郎さん。

俳優としてデビューしたのはそれから2年後のこと。

デビュー当初は脇役ばかりでしたが1961年の映画「女の勲章」で注目を集めると同年の映画「悪名」では勝新太郎さんの相棒役に大抜擢。

端正な顔立ちと180cmと高身長の田宮二郎さん。


そして脇役として様々な役柄を演じた事による演技力と演技の幅。

注目さえ集めればスターとなるのは当然と言えるでしょう。

その後は大映を代表する俳優の1人として多くの作品で主演を務めた田宮二郎さん。

ところが1968年の映画「不信のとき」のポスターの名前の掲載順を巡り社長の永田雅一さんと衝突。

その結果、田宮二郎さんは大映を解雇されることに。

それもただの解雇ではなく契約期間を残したままでの解雇。

大手映画会社が俳優の引き抜きを禁止する五社協定があった当時。

大映との契約が残った事で田宮二郎さんは他の会社の映画やドラマに出演する事が出来ませんでした。

つまり、俳優として活躍する事が出来なくなってしまったんです。

それだけ大映が田宮二郎さんに激怒していたということ。

ただ、看板役者を失った事で大映の経営も傾く事となってしまいます。

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こうして俳優としての居場所が無くなってしまった田宮二郎さん。

生活のために司会や歌手、地方のキャバレー巡りなどそれまでとは全く異なる活動を強いられます。

すると1969年に「クイズタイムショック」の司会に起用されると軽快なトークとスムーズな進行が話題に。

その後も多くの番組で司会を担当するなど、俳優だけではなく司会者としても高く評価されるようになりました。


そして1969年6月に大映との契約が切れると「日本暗殺秘録」で映画業界に復帰。

1972年にドラマに本格的に進出すると「白い巨塔」や「高原へいらっしゃい」など話題作に出演しテレビ界でもスターとなります。

そんな田宮二郎さんが結婚したのは1965年。

お相手は女優として活躍した藤由紀子さん。

当初は松竹に所属していた藤由紀子さんですがテレビへの進出を巡り会社と揉めて退社。

その後、大映に入社し再デビューを果たしています。

そして田宮二郎さんと藤由紀子さんは「黒の暴走」、「黒の超特急」などいわゆる「黒シリーズ」で共演。

これがきっかけとなり交際が始まったそうです。

自分の意思を貫くために会社とぶつかった過去を持つ二人。

互いに相手に自分と似たものを感じて惹かれていったのかも知れませんね。

田宮二郎さんと結婚後、藤由紀子さんは芸能界を引退。

その後は妻としてだけでなく、後に設立される「田宮企画」の代表として公私に渡って田宮二郎さんを支え続けました。

田宮二郎の壮絶な死因とは

俳優として映画、テレビに欠かせない存在だった田宮二郎さん。

俳優業での成功の後押しを受けて次第にビジネスにも興味を持っていったそうです。

財政界とも関わりを持ち、ゴルフ場やマンションの経営も行うように。

そして1977年には日英合作映画「イエロー・ドッグ」に出演すると共に出資も行います。

ところがいずれも失敗に終わり、残ったのは多額の借金だけ。

事業の失敗と俳優として多忙な生活により田宮二郎さんは躁鬱病を発症。

ですが田宮二郎さんは自身の躁鬱病を認めず薬を飲む事も拒んだそうです。

その後、田宮二郎さんは自宅で散弾銃で心臓を打ち抜いて自殺。

43歳というあまりにも早すぎる死と壮絶な死因により日本中が騒然となりました。

クレー射撃が趣味で銃を所有していた田宮二郎さん。

生前、妻に対して「こうすれば死ねる」と銃の引き金に足の指をかけて見せた事があったそうです。

まさかそれが実際に行われるなんて妻は思いもよらなかったはず。

それだけ田宮二郎さんが窮地に追い込まれていたという事なのでしょう。

若すぎる死、遺書を残していた?

43歳という若さでこの世を去った田宮二郎さん。

鬱状態が原因の自殺衝動の末に自殺したと思いきやそうではなさそうです。


というのも田宮二郎さんは亡くなる前に遺書を8通も残していると言われているんです。

遺書の宛先は妻と2人の息子、弁護士など。

公私に渡って支えてくれた妻には感謝の言葉、生きる事の苦しさと死の恐怖。

俳優を志していた次男にはアドバイス等が書かれていたそうです。

田宮二郎さんは家族の事が最後まで気がかりだったのでしょう。

それでも死を選んでしまうなんて、心身ともにギリギリの状態だった事が分かります。

当時の田宮二郎さんには遺書で自分の思いを伝える事が唯一の心配りだったのかもしれません。

きっと残された遺書は親族達にとって今でもかけがえのない物となっている事でしょう。

元麻布の自宅は自殺後どうなったのか

自宅で自殺してしまった田宮二郎さん。

その自宅があったのは高級住宅街として知られる元麻布。

都会でありながら自然も多く残された抜群の環境。

元麻布に自宅を構えた事からも田宮二郎さんが俳優として成功していた事が良く分かりますよね。

そんな田宮二郎さんの自宅ですが自殺後に解体されています。

跡地には外国人向けの賃貸マンションが建てられ、妻がオーナーとなったようです。

いくら田宮二郎さんの思い出が詰まった自宅とは言え住み続ける事には抵抗があったのでしょう。

外国人向けの賃貸マンションというのも元麻布という環境ならでは。


死後、自宅が取り壊される等、田宮二郎さんにまつわる多くの物が無くなってしまいました。

ですが田宮二郎さんが出演した素晴らしい作品の数々は今も多くの人々の心の中に残っている事でしょう。

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