特異な発想で人間の不条理を描き、現代文学に新風を送るとともに、海外でも高い評価を得た安部公房(あべこうぼう)さん。
ノーベル文学賞最有力候補と目された天才ぶりや作風をはじめ、同じく戦後日本文学の担い手であった三島由紀夫さんを取り上げます。
女優の山口果林さんと長年にわたり恋愛関係にあったことが明らかになっていますが、倒れて搬出された場所は山口さんの家だったのでしょうか。
また、娘のねりさんにも注目します。
安部公房の多彩な天才ぶりと作風
難解といわれながらも、その先鋭的かつシュールな世界観で国内外で人気を集めた安部公房さん。
1924年3月7日に東京都北区で誕生したのち少年期を満州で過ごし、同地で敗戦を迎えました。
最終学歴は東京大学医学部卒業、本名は名前を「きみふさ」と読みます。
生涯で受賞した文学賞は数多く、主なものだけでも『壁―S・カルマ氏の犯罪』での芥川賞 、戦後文学賞 、谷崎潤一郎賞、フランス最優秀外国文学賞、芸術選奨など。
作品は30か国以上の国で翻訳されています。
早い時期から執筆にワープロを使用しており、日本で最初にワープロで原稿を書いた作家が安部公房さんだそうです。
— gotan (@vUVcAhKxmtV6y5H) May 21, 2019
「ノーベル文学賞に最も近い日本人作家」と評されていた安部公房さん。
あと1年存命していれば受賞していたといわれていますね。
ノーベル賞を選考するスウェーデン・アカデミーのペール・ベストベリー委員長は、「急死しなければ受けていたでしょう、とても、とても近かった」という言葉を残しました。
国際的な評価が高い理由として、安部文学の骨格が数学的であることを指摘する方がいますが、筆者も同感です。
学生時代には数学に熱中し、「数学の天才」と呼ばれていました。
多くの作品には冒頭に設定が存在しており、それはまるで数学の公式を思わせます。
この公式に豊かなアイディアと巧妙な構成がプラスされて物語がふくらみ、奇想天外な結末が導きだされていきます。
けれども、その結末に至るまでの展開に無理はありません。
情感ではなく理をベースとした作風だからこそ、外国語に置き換えても色褪せなかったのでしょう。
安部公房さんはまた、小説家であると同時に劇作家、演出家でもありました。
1973年には演劇グループ・安部公房スタジオを立ち上げ、アメリカ公演が好評を博しています。
多彩な才能を持ち、その才能で世界的に足跡を残したわけですから、天才と呼ばれるのも納得です。
三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家に
安部公房さん、三島由紀夫さん、大江健三郎さんら世界的な作家がほぼ同時期に存在した戦後というのは、今考えるとすごい時代でした。
純文学最強時代と言ったら言い過ぎでしょうか。
とりわけ共産主義圏の東ヨーロッパで高く評価された安部公房さんに対し、西ヨーロッパを中心に人気が高かった三島由紀夫さん。
二人は対極とみなされることもありますが、三島由紀夫さん自身は安部作品を高く評価していました。
1967年の谷崎潤一郎賞の選考の際には、戯曲『友達』を強く推して、主な授賞対象が長編小説だった同賞で異例の戯曲の受賞が実現。
文芸誌で行われた対談では「二十世紀の文学」というテーマのもと、将来の現代文学について熱い意見をたたかわせています。
三島さんは「性」、安部さんは「言葉」を挙げているところが、それぞれの作家性を表しているようで興味深いです。
【悲報】三島由紀夫「このままだと日本は無機的で空っぽな国になるだろう」#三島由紀夫 #日本https://t.co/dHEumSVC06
— 哲学ニュースnwk (@nwknews) September 13, 2020
安部公房が倒れたのは山口果林の家だった
1992年12月25日の深夜、執筆中に脳内出血を起こして入院した安部公房さん。
体調が回復していったん退院しますが、インフルエンザを発症して1月20日に再入院。
亡くなったのは22日でした。
死因は急性心不全と発表されています。
68歳でした。
すでに家族とは別居していたようです。
入院時に搬出されたのが愛人の家だったために一部では騒がれたようですが、最期は家族に看取られたとのこと。
没後20年になる2013年には、女優の山口果林さんが安部さんとの20年以上にわたる不倫関係を『安部公房とわたし』で暴露して世間を騒然とさせます。
— gotan (@vUVcAhKxmtV6y5H) May 21, 2019
— gotan (@vUVcAhKxmtV6y5H) May 21, 2019
二人の関係がはじまったのは山口さんが桐朋学園大学短期大学部に通う学生の時でした。
同校の教授だった安部さんは23歳年上で妻子ある身。
23歳で安部さんの子供を身ごもり、中絶したことや、「山口果林」という芸名の命名者が安部さんだったことを明かしています。
安部さんの遺族に対する出版の許諾がなかったことから、「自叙伝」と称する山口さんの思いとは裏腹に、関係者の間では問題作とみなす向きもあったそうです。
さらに同書では安部さんが前立腺がんと闘病していたことが明らかに。
このことはご本人の希望で伏せられていたこともあって、遺族の逆鱗に触れてしまったようです。
安部公房の娘・ねりが山口果林に激怒
山口果林さんの書籍に怒りをあらわにしていたと伝えられる娘のねりさん。
1954年に生まれたねりさんは、『安部公房とわたし』に先立つ2011年に安部ねり名義で『安部公房伝』を出版。
父親の没後に刊行された全集の編集にも尽力しました。
日本医科大学を卒業した産婦人科医でしたが、2018年8月16日に胸部大動脈破裂のため64歳で他界。
妻の真知さんもすでにこの世を去っており、この騒動がどう収束したのかははっきりしていません。
長年にわたる山口果林さんとの関係や闘病生活の詳細については、書籍の出版がなければ今後も公になることはなかったでしょう。
天国の安部公房さんはどう感じているのでしょうか。
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