大岡昇平の妻と子供。家は成城、中原中也の死に号泣。経歴まとめ

『野火』『レイテ戦記』などの反戦文学や恋愛小説『武蔵野夫人』、さらには歴史小説や推理小説まで多彩な作品を発表し、戦後文学に大きな足跡を残した大岡昇平(おおおかしょうへい)さん。

この記事では経歴を振り返りながら、恋愛結婚をした妻や子供のこと、成城の家、親交が深かった中原中也さんについてお送りします。

大岡昇平は社内恋愛で妻と結婚、子供は二人

太平洋戦争の最も悲惨な戦場のひとつであるフィリピン戦線に出征した体験をもつ大岡昇平さん。

復員後の1949年、米軍の捕虜となった経験を綴った『俘虜記』で文壇に登場しました。


大岡昇平さんというと、自身の強烈な体験に裏打ちされた戦争文学がよく知られますが、恋愛小説、推理小説、歴史小説など執筆活動は多岐にわたります。

また史観の偏りや史実の脚色をよしとせず、森鴎外さん、井上靖さん、松本清張さんといった面々にも遠慮なく苦言を呈したことから、「ケンカ大岡」と呼ばれる一面も。

芸術院会員を辞退し、論功恩賞に関心を示さなかった反骨の人としても知られています。

晩年になっても若々しい感性を失わず、映画、ロックバンド、マンガまでに関心を寄せていた大岡昇平さん。

自身の担当編集者だった坂本一亀さんの子息が坂本龍一さんだと知った時は、「『げっ』と驚くのはこっちなり」と述べるほどの洒落っ気がありました。

「~なり」という言い回しがお気に入りだったようです。

出征中は二人の子供をまかせて苦労をかけたと語る、その春枝夫人とは社内恋愛の末に1939年に結婚。

出会いは翻訳係として入社した神戸の帝国酸素株式会社でした。

1941年2月に長女の鞆絵(ともえ)さんが、1943年7月に長男の貞一さんが誕生しています。

鞆絵さんは童話作家の長田鞆絵さんであり、『わたしうれしいの』『さんぽみちのおきゃくさま』のほか、エッセイ『父の顔、わたしの顔』を発表。

貞一さんはブルックリンにあるプラット・インスティテュート芸術大学を卒業後、ニューヨークのデイヴィス・ブロディ建築事務所に務めた建築家です。

私小説『萌野』は、貞一さんの子供で大岡昇平さんの初孫にあたる萌野(もや)さんを描いたものです。

大岡昇平の家と地元を綴った『成城だより』

雑誌『文学界』に連載され、1981年から刊行された『成城だより』は、地元である世田谷区成城のことを綴った作品です。

家は小田急線の成城学園前駅から徒歩15分の距離とあり、白内障や心不全を患った自分にとっては駅前までの散歩が唯一の運動と記しています。

駅周辺にある行きつけの蕎麦屋や中華料理店、書店、レコード店などで何を食し、何を購入したかも語られており、大岡昇平さんの何気ない日常のひとコマが見えてきます。

もちろんすでに閉店したお店もあり、成城の風景は当時と今とではずいぶん変わったはずですが、高級住宅街としての成城の町並みは見事に伝わってきます。

大岡昇平ファンにとっては必読の本といえるでしょう。

大岡昇平の経歴

大岡昇平さんは1909年、東京都新宿区に誕生しました。

1921年に青山学院中学部に入学し、4年後に成城第二中学校4年に編入。

翌年に7年制の高等学校となったため、高等科に進学します。

1929年、京都大学文学部文学科に入学。

1934年、国民新聞社に入社、翌年に退職。

1938年に帝国酸素に翻訳係として入社しますが、5年後にまたもや退社。

その後に川崎重工業に入社。

1944年、教育召集により東部第二部隊に入営し、フィリピンへ出征。

1945年、米軍の捕虜になり、終戦後に復員しました。

1949年、『俘虜記』により横光利一賞を受賞、 明治大学文学部仏文学講師に就任。

1952年、『野火』で読売文学賞。

1961年、『花影』で毎日出版文化賞、新潮社文学賞。

1972年、『レイテ戦記』で毎日芸術賞。

1974年、『中原中也』で 野間文芸賞。

1976年、朝日文化賞を受賞。

1978年、『事件』により日本推理作家協会賞。

1988年12月25日、脳梗塞のため死去。

翌年に『小説家夏目漱石』が読売文学賞を受賞。

遅めの作家デビューでありながら、多くの文学賞を受賞していますね。

大岡昇平さんはフランス文学の翻訳家でもありました。

友人・中原中也の夭逝に号泣

高校時代に小林秀雄さんからフランス語を学んでいた大岡昇平さん。

小林さんを通じて、詩人の中原中也さんと知り合います。

二人は親交を結び、同人雑誌「白痴群」を創刊。

大岡さんの中原中也さんに対する友情はあつく、『中原中也』『生と歌 中原中也その後』といった著作のほか、詩集の編纂も担当しています。

戦後、中原中也さんの人気が高まったのは大岡さんによるところが大きいという見方も強いですね。

中原さんの逝去に際して、いちばん泣いたのも大岡昇平さんだったようです。

中也研究で知られる弟の思郎さんは『兄中原中也と祖先たち』の中で、「大岡さんがのしかかるようにして棺をのぞき、破裂するように泣かれた情景が今でも鮮明に目に残っている」と記しています。

ちなみに、嵐山光三郎さんが大岡さんに聞いたところによると、黒帽子を被った中原中也さんの有名な写真は複写やレタッチを繰り返したために実際のご本人とはかなり違う印象になっているとのこと。

大岡さんいわく、シワのある、どこにでもいる「おとっつぁん顔」だったそうです。


自らの文学生活を振り返った『わが文学生活』では、最後まで文学に忠誠を尽くすと語っていた大岡昇平さん。

その言葉のとおりの行動を貫き、「葬式無用、戒名不用」で生涯を終えました。

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