石牟礼道子の息子と夫、結婚について。水俣病と作品。渡辺京二との関係とは

『苦海浄土 わが水俣病』を書き、文明の病とされる水俣病の知名度を高めた作家・石牟礼道子(いしむれ みちこ)さん。

2018年2月に90歳で亡くなるまで、作家として水俣病に向き合い続けた人生を送りました。

水俣病を題材とした文学を誕生させた業績こそ知られているものの、石牟礼さんの人となりを知る人は少ないかもしれません。

今回は石牟礼さんについて、息子のこと、夫と結婚の情報、水俣病とのかかわりを見ていきましょう。

さらに渡辺京二さんとの関係を見ていきながら、晩年の様子についてもご紹介します。

石牟礼道子のプロフィール

本名:石牟礼道子(旧姓:吉田)

生年月日:1927年3月11日

身長:不明

出身地:熊本県天草郡河浦町(現在の天草市)

最終学歴:水俣実務学校(現在の熊本県立水俣高等学校)

石牟礼道子の息子

石牟礼さんは20歳のときに結婚し、1947年に息子をもうけています。


水俣病の患者に初めて出会ったのも、息子が小学校5年生の時に結核で入院した先の病院でした。

この息子は、石牟礼さんの葬儀で喪主を務めた長男・道生(みちお)さんのことでしょう。

作家である母と違い、一般的なサラリーマンとして働いていたようです。

子供のころから病弱だったそうで、母からの愛情を一身に受けて育ったということなので、兄弟はいないのかもしれません。

高校を出て大学進学という時、母である石牟礼さんは家を出たと言います。

水俣病の現状と真実を伝えるため、集中して執筆できる場所へ移ったのです。

穏やかな性格の父と若い息子には、それを止めるすべもありませんでした。

両親のすれ違いを見てきた道生さんですが、最終的には偉大な母の決意を尊重したのでしょう。

時たま取材を受け、メディア出演していることからも、むしろ子育てより執筆を選んだ母を誇りに思っているのかもしれませんね。

石牟礼道子の夫と結婚

代用教員をしていた石牟礼さんが20歳で結婚した相手は、22歳の中学教諭・石牟礼弘さんでした。

熊本県水俣市で結婚した2人。

弘さん側としては、石屋として繁栄していた実家が没落したこともあり、親戚のつてで頼りになりそうな相手を選んだという事情があったそうです。

石牟礼さんは後に、作家としてのペンネームは「旧姓の吉田より石牟礼の方が面白い」という発言をしており、名字以上のこだわりもない結婚だったことがうかがえますね。

夫も子供も置いて家を去り、水俣病の取材に人生をささげたことからも、結婚に執着していないことがわかります。

しかし弘さんは、自分から選んだ相手ということもあったのか、出ていった妻に金銭的援助を惜しみませんでした。

妻に尽くした末、2015年、老衰のため89歳で亡くなっています。

夫の死の直前に石牟礼さんは、「作家としてやってこられたのはあなたのおかげ」という言葉をかけたそうです。

水俣文学の確立者としての偉大な面がフォーカスされがちですが、妻としては身勝手だったと言われても仕方ない行動をとったことに、自責の念を感じていたのかもしれません。

穏やかな性格の夫が、妻を献身的に支えるという、当時の日本では考えられない夫婦関係だったことがわかりますね。

水俣病とのかかわり

先述した通り、石牟礼さんは息子の入院先で初めて水俣病患者に出会いました。

顔に包帯を巻いて、ふらつきながら歩く患者の姿が忘れられず、「奇病病棟」と呼ばれていた病棟を訪ねるようになります。

その後、水俣病に苦しむ人たちと行動を共にし、その実態をルポルタージュとしてまとめ始めました。

1958年に同人誌「サークル村」に作品を掲載するようになり、文学活動を開始。


65年には『海と空のあいだに』の連載を、「熊本風土記」で始めます。

これを改題したのが翌年発表された『苦海浄土』でした。

水俣病の実態をつづっただけでなく、その詩的な文体から「鎮魂の文学」と呼ばれるようになります。

優れたノンフィクション作品に与えられる、大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれますが、受賞を辞退。

石牟礼さんはあくまで自分が、言葉を発信できない水俣病患者の声を代弁したに過ぎないと考えていたためというのが、最も信ぴょう性の高い理由でしょう。

水俣病の人の声を「語り部」として伝える。

同時に詩・文学として作品をつづる。

それが石牟礼さんのポリシーだったのでしょう。

だからこそ、自分をノンフィクション作家という枠で認識されてたくなかったため、辞退をしたのかもしれません。

石牟礼道子と渡辺京二との関係

名作『苦界浄土』の初稿である『海と空のあいだに』。

この原稿を受け取った編集者が、2020年現在、熊本市在住の思想家・渡辺京二さん。

河合塾で講師をしながら、日本の庶民の生活を常に意識した研究を続けていました。

江戸期の文明を扱った『逝きし世の面影』が代表作で、思想界の重鎮の位置を占めている人です。

石牟礼さんとは作家と編集者の関係で出会って以来、その関係を超えた絆で結ばれていました。

「長年、彼女の仕事を手伝っていました。1人で放っておくわけにいかない人でした」と語り、60年間にわたって仕事上のパートナーだったことを公表しています。

2020年に発売された、米本浩二著『魂の邂逅―石牟礼道子と渡辺京二』には、2人の関係が詳細につづられています。

2人は熱い志で、水俣病をはじめとする社会問題に向き合っていました。

石牟礼さんが晩年、パーキンソン病を患ってからは、毎日の食事を作るために渡辺さんが自宅へ通っていたそうです。

それ以前からも片付け、原稿の清書、手紙の開封なども担当していたそうです。


石牟礼さんは家庭を捨ててまで志を追う人だったとはいえ、自立して生きていくことも難しい、不器用な人だったようですね。

2人の関係には多くのファンにとって、胸が熱くなるものがあると言えるでしょう。

今回は、石牟礼道子さんについてご紹介しました。

名作誕生には、夫・石牟礼弘さんと、右腕ともいうべき渡辺京二さんという2人の男性のサポートが不可欠だったと言えるでしょう。

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