浅田次郎の娘・妻と家族について。生い立ちが波乱万丈、母の実家は山香荘

『地下鉄(メトロ)に乗って』『鉄道員(ぽっぽや)』『壬生義士伝』といった名作が次々と映像化されている「平成の泣かせ屋」こと浅田次郎(あさだじろう)さん。

日々の生活で心がささくれ立ったり、人情に触れたくなったりした時はうってつけの小説家といえるでしょう。

波乱万丈な人生を送ってきた作家でもありますが、今回は浅田次郎さんの生い立ちや家族に注目。

とくに娘、妻、母について詳しくみていきたいと思います。

浅田次郎の家族(娘・妻)について


日本ペンクラブ会長をはじめ、直木賞、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞といった著名な文学賞の選考委員を務めてきた浅田次郎さん。

今でこそベテラン売れっ子作家というイメージがありますが、家族には長いこと「売れない小説家」と認知されていたのだそう。

その不名誉を一蹴したのが1995年の『地下鉄に乗って』でした。

同作品は吉川英治文学新人賞を受賞し、初めて自著の広告が新聞に載ることに。

この時、浅田次郎さんはすでに44歳。

以降、長い下積み生活の反動が後押しするようにベストセラー作家への階段を駆け上がっていきます。

浅田次郎さんは本名を岩戸康次郎さんといい、1951年12月13日東京都中野区生まれ。

妻は同い年で娘が一人いるようです。

残念ながら二人の名前や出生日は不明でした。

夫婦共通の趣味はガーデニングで、自宅に茶室を作ったのは茶道をたしなむ妻のためなのだそう。

娘は精神科医との情報がありますが、これについては信憑性が高いでしょう。

浅田次郎さんは著作でパニック障害らしき発作に見舞われたことを明かしており、医学部に進学する娘に対して親孝行できる科を選ぶように言ったところ、娘は精神科を選択したといわれています。


初の時代小説であり、柴田錬三郎賞を受賞した『壬生義士伝』を執筆したきっかけは、娘が岩手県の医科大学に進学し、盛岡市で一人暮らしをはじめたことにありました。

浅田次郎さんは盛岡市をたびたび訪れるうちに、盛岡(南部藩)藩士を主人公にした小説を書こうと思いたったそうです。

『壬生義士伝』はテレビドラマ化、映画化、舞台化されており、ドラマ版には浅田次郎さんも新選組の幹部役で特別出演。

劇場版は日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀主演男優賞、最優秀助演男優賞ほか数々の賞に輝きました。

東日本大震災の折には盛岡市在住の娘夫婦と連絡がとれず、また彼らは仕事で定期的に三陸へ行っていたこともあって心配でたまらなかったと明かした浅田次郎さん。

2011年3月の時点で娘はすでに結婚していたことになりますね。

浅田次郎の生い立ちは波乱万丈

祖父母も両親も離婚しているという浅田次郎さん。

兄弟は兄が一人いるそうです。

父はカメラ屋を営み、戦後の闇市で財をなした人物でしたが、月に一度ほどしか家に帰らない自由人。

浅田さんご本人の言葉を借りると、実家は「闇市成金のバブリーな家」。

自家用車などなかった時代に運転手つきの外車に乗り、使用人にランドセルを持たせて私立のミッションスクールに通っていたそうです。

ところが 9歳の時に家は没落。

両親は離婚、母は失踪、一家は離散状態となり、子供たちは親戚宅を転々とすることに。

やがて母の生活にめどがつき、兄弟を引き取って三人の生活がはじまりました。

浅田次郎さんは駒場東邦中学校から中央大学杉並高校へ進み、同校を卒業。

青春時代の知的シンボルで憧れの的だった三島由紀夫の三島事件に触発されて陸上自衛隊に入隊します。

浅田次郎の母の実家は山香荘

母・也子さんの実家は、奥多摩にそびえる霊山・御岳山で宮司を務めていました。

御岳山の宿坊・山香荘も母方の実家であり、浅田次郎さんゆかりの旅館として有名です。

御岳山の山頂に鎮座する武蔵御嶽神社の参拝者のお宿として、300年近く歴史を刻んできた山香荘。

浅田次郎さんもよく宿泊や執筆活動に利用するため、ファンにとっては聖地も同然の宿坊です。

短編集『神坐(いま)す山の物語』の舞台こそ、この御岳山です。


書くことはいちばんの道楽と語り、「小説の大衆食堂」を自称する浅田次郎さん。

アウトローたちが織りなすピカレスクロマンから壮大な歴史小説、人情もの、コメディ、ミステリーなど垣根を超えた作品群をよく表している言葉です。

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