北大路魯山人の息子は夭逝、娘は絶縁。子孫は北大路泰嗣。結婚6回&母親の不義の子

明治から昭和にかけて活躍した芸術家であり、伝説的な高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を主宰して料理・食器の演出にも鬼才を発揮した北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)。

グルメ漫画『美味しんぼ』の海原雄山のモデルになった人物としても知られていますね。

里親を転々とした不遇な生い立ちが人格形成に大きく影響したといわれていますが、そもそも魯山人はどのような生涯を送ったのでしょうか。

今回は孤高の芸術家を形づくった背景に目を向けて、息子・娘・子孫をはじめ、6度の結婚、母親について迫ります。

なお、「北大路魯山人」の号を使うのは30代以降ですが、本記事では便宜上、「北大路魯山人」と統一して表記します。

北大路魯山人のプロフィール

本名:北大路房次郎

生年月日:1883年(明治16年)3月23日

没年月日:1959年(昭和34年)12月21日

出身地:京都府愛宕郡上賀茂村(現・京都市北区)

最終学歴:梅屋尋常小学校(現・御所南小学校、新町小学校)卒業

北大路魯山人の2人の息子は夭折

北大路魯山人は生涯で6度の結婚をしており、いずれも破綻しています。

6度の結婚生活を通じて何人の子供をもうけたのかは確たる情報がありませんが、2人の男児と1人の女児を授かったことは明らかになっています。

まずは息子たちについてみていきましょう。


魯山人は1908年2月に安見タミと最初の結婚をしました。

その年の7月に生まれたのが長男の桜一さんです。

桜一さんは、のちに房子さんという女性と結婚し、戦時中の1944年に召集されていますが、復員することができました。

ところが、1949年1月15日に40歳の若さで死去。

死因は公には明らかになっていません。

タミ夫人とのあいだには、1911年3月に第二子が誕生しています。

この子がおそらく次男でしょう。

しかし第二子については情報がまったくなく、名前すら不明です。

「2人の息子は夭逝した」とウィキペディアにあることから、長男と同じく若くして亡くなったようですね。

北大路魯山人は娘・和子を絶縁

1928年2月4日には長女の和子さんが誕生しました。

生母は3人めの妻・きよ夫人です。

ところが10年後の1938年、きよ夫人が別の男性と駆け落ちしてしまい、3度めの結婚生活も破綻。

和子さんは魯山人のもとで育てられることになりました。


その後、和子さんは鎌倉女学校を卒業。

父と娘は仲むつまじく、たびたび2人で旅行にもでかけていたそうです。

故郷上賀茂の西にある西方寺には、北大路家の墓があります。

2人でここを訪れた際、 娘の筆跡で立派な墓を建てることを思いついた魯山人。

「北大路家代々之霊墓」という揮毫を和子さんに練習させ、それを墓石に彫らせたのです。

娘への愛情がうかがえるエピソードですね。

そんな親子関係に亀裂が生じたのは、大人になった和子さんのある行動がきっかけでした。

父の骨董品を持ち出したことに魯山人が激怒して、親子の縁を切ってしまったのです。

勘当された和子さんは、父の最晩年にいたっても病床に呼ばれることはありませんでした。

北大路魯山人、子孫に陶芸家の北大路泰嗣

陶芸家として活動する北大路泰嗣(きたおおじ ひろし)さんは魯山人の孫にあたります。

著名な子孫といえば、この方でしょう。

泰嗣さんは鎌倉に生まれ、魯山人に「泰嗣」と命名されました。

ですが、どの方の息子なのかは不明です。


陶芸家としても名声を欲しいままにした祖父の影響を受けて育った泰嗣さん。

祖父と親交のあった荒川豊蔵の水月窯で修業をつんだのち、无疆窯(むきょうがま)を開いて独立し、窯元として活動をはじめたのが1992年でした。

本業のかたわら、美術品の鑑定や魯山人作品の鑑定も手がけています。

北大路魯山人は6度結婚、6度離婚

美を厳しく追求する姿勢から、自分の思ったことを遠慮なく口にしたため、毒舌の人としても名高い北大路魯山人。

傲慢な態度と自由すぎる言動が周囲から煙たがられることもありました。

何ごとも我を通す身勝手さがありながら、相手に負担をかけることには無頓着でした。

無頓着なのは女性関係も同じだったようで、6度の結婚はすべて離婚に終わっています。

24歳のときに結婚した最初の妻・タミ夫人は仕出し料理店「今堀」の娘です。

評判の美人で、若い魯山人を献身的に支える良妻賢母でした。

ところが一方の夫は、仕事で得た収入を書道具や骨董品、外食につぎ込んでしまう困った浪費家。

それだけにとどまらず、やがて資産家の娘・藤井せきと一線を越えてしまい、妻を捨てて再婚。


この再婚については、芸術活動の資金が必要だった魯山人が、お金目当てに資産家の娘を選んだというのが通説になっています。

再婚はしたものの、せき夫人に資金援助を拒まれてしまった魯山人。

すると今度は、自らプロデュースした星岡茶寮の従業員・中島きよと深い仲に。

彼女の気をひくために倍以上の給料を渡していた話は有名です。

せき夫人と別れ、3人めの妻を迎えたのは44歳のときでした。

きよ夫人との破局後も、1938年、1940年、1948年と3度の結婚を繰り返した魯山人。

家庭の温かみに飢えた幼年期を過ごし、ついに手に入れた幸せをいつも自ら捨ててしまった結果、孤独な晩年を送ることになりました。
芸術家としての野心と薄情さを併せ持ち、たくさんの女性を渡り歩いてきたという印象が否めません。

北大路魯山人は母親の不義の子

北大路魯山人は、京都の上賀茂神社の社家(しゃけ)である北大路家の次男として生まれました。

社家とは、世襲で社務をつとめる家のことをさします。

社家の家柄というと、いかにも裕福なように思われますが、当時の社家の収入は乏しく、生活は困窮していました。

母親の登女(とめ)は、同じく上賀茂神社の社家である西池家の出身です。


魯山人は登女の不義の子で、父親・北大路清操(せいそう)の実子ではありません。

清操は妻の不貞を気に病み、魯山人が生まれる4か月前に自ら命を絶ちました。

北大路家には、登女と前夫の息子・清晃(きよてる)が長男として入籍していたため、お腹の子と幼い清晃を抱えた登女は途方にくれて、服部良知巡査夫婦に相談をもちかけます。

結論は、生まれる子の物心がつく前に里子にだしたほうがいいというものでした。

魯山人は、生後すぐに貧しい農家に養子にだされます。

その後、6歳で福田家に落ち着くまで、肉親の愛情を知らぬまま養家を転々とする幼年期を過ごしたのです。

乳飲み子を手放した登女は、清晃とともに上賀茂を去りました。

20歳のとき、ひょんなことから母親の所在を知った魯山人。

東京に会いに行くも受け入れられず、そのまま東京に残って書家になることを決意します。

登女からの便りが届いたのは33歳のときでした。

他界した清晃の代わりに、北大路家の家督を継いでほしいとの頼みでした。

生まれ落ちてすぐに捨てるように扱った次男に対して、罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれません。

魯山人は家督を相続し、北大路姓に戻ったのです。

「芸術家は位階勲等とは無縁であるべき」というポリシーから、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定を固辞した北大路魯山人。

不幸な生い立ちをはねのけるかのように理想を追求し続け、高みをみせた芸術には、器の大きい生きざまを感じます。


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