『舞姫』や『高瀬舟』などの名作で知られ、医師としても活動した文豪・森鴎外(もり おうがい)。
彼が作品の執筆に使用したことで、文豪ゆかりの宿として親しまれたホテルが、2020年に閉館しました。
ホテルのあった上野では、現在その存在を後世に残すため、どんな取り組みがなされているのでしょうか。
また今回は鴎外の生い立ちと生家についてもご紹介し、彼に縁のある土地をまとめました。
森鴎外のプロフィール
本名:森林太郎
生年月日:1862年2月17日
死没:1922年7月9日
身長:161cm
出身地:島根県津和野町町田
最終学歴:東京医学校(現在の東京大学医学部)
森鴎外ゆかりのホテル閉館。その後、上野の状況
まずは鴎外ゆかりのホテルの詳細、閉館後の上野での取り組みをご紹介します。
ゆかりのホテルというのは、東京都の上野にある「水月ホテル鴎外荘」のことです。
ホテルと言っても、宿になる前は庭園を備えた立派な日本家屋でした。
樹齢300年のカヤの木がある、およそ築130年の日本家屋で、新婚時代の鴎外がここに住んで『舞姫』を執筆しています。
2020年 東京都台東区 森鴎外居住之跡
今月末で閉館予定の上野池之端に建つ「水月ホテル 鴎外荘」。敷地内には明治の文豪・森鴎外の旧居が保存されており、代表作「舞姫」が執筆された部屋などを見学することが出来る。明治初期の貴重な建築。
①舞姫門
②建物外観
③新緑が美しいですね
④舞姫の間 pic.twitter.com/8RSDLlUSV9— 武田菱 (@takedabishi8) May 23, 2020
1943年に鴎外の邸宅の隣で営業を開始した水月旅館が、邸宅を買収し、鴎外ゆかりのホテルとして改名しました。
天然温泉が名物で、舞姫の間や舞姫門なども文学ファンの間で話題になり、東日本大震災後の不況も乗り切って経営を続けていたそうです。
しかしコロナ流行により、ついに経営が悪化し、倒産する前に閉業を決めました。
上野の水月ホテル鴎外荘が5月末で弊館……『舞姫』が生み出された森鴎外の家が敷地内にあって、明治時代の邸宅と庭園が昔のまま保存されてる……宿もめちゃくちゃ綺麗だし、天然温泉もあって、しかも東京のど真ん中で朝食付き1万ほどで泊まれるの、優秀過ぎ……外出自粛が無くなったらスグ行こう…… pic.twitter.com/NZJYP9JMZz
— いきなり若旦那奥村ゴン (@wakadanna_coo) March 26, 2020
2020年5月末で旅館の経営が終わった後は、クラウドファンディングで資金を募り、鴎外の邸宅を保存するために経営者たちは尽力しています。
「鷗外荘修繕プロジェクト」のクラウドファンディング始まりました。
営業終了を決意したのも、鷗外荘守るため。
これから本格的に修繕を進めていきます。
どうか応援よろしくお願いいたします。https://t.co/saUjtW6p53#鷗外荘を守るために #鴎外荘— 水月ホテル鷗外荘 (@suigetsuhotel) October 23, 2020
11月末の時点で800万円もの金額が寄付され、どれほど上野の名物として愛されていた宿だったかが改めてわかりました。
筆者も1度で良いので、ぜひ宿泊してみたかったのですが、上野を散策する際に外観を眺める程度で終わってしまったのが心残りです。
ぜひ邸宅が保存され、後世の人々が鴎外の息吹を感じられる上野名物として、親しまれ続けて欲しいものですね。
森鴎外の生い立ち
次に鴎外の生い立ちについて見ていきましょう。
島根県津和野町で、津和野藩お付きの医者の後継ぎとして生まれた鴎外。
幼い頃から論語、オランダ語に親しみ、9歳の時点で15歳レベルの学力があったとされています。
本来であれば津和野藩に医者として仕えるはずでしたが、廃藩置県により大名制度も廃止になり、1872年(明治5年)に父と上京して墨田区に住みました。
医者の道は変わらず志し続け、東京医学校(現在の東京大学医学部)の予科に、わずか12歳で入学。
医学の勉強だけでなく、漢詩を乱読し、和歌を作るなど文学にものめりこんでいきます。
卒業後は開業医の父を手伝っていましたが、同期の小池正直の手助けもあって陸軍の軍医となりました。
幼くして語学堪能で、学業成績も優秀だったため、将来を嘱望されていたことがわかりますね。
その博識さは、一般的な秀才を超越した、史上まれに見る知識人だったと表現しても過言ではないでしょう。
森鴎外の生家
10歳で上京した鴎外ですが、故郷の島根県に生家は残っているのでしょうか。
津和野藩の藩医だった森家の旧宅は、国登録の史跡として今も保存されています。
森鴎外。相反する文化や生活様式を両立させたって何度聞いても、それだけですごいね。。西洋にただ憧れたんじゃなくて日本の良きとこは良きとこで大事にしてたのもいいな
生家は立派なお家でした。#津和野を独り歩む #くまむとうさきだ君の旅 pic.twitter.com/yTn4RQBzq4
— うさきだ君の助手 (@08300623kd) December 16, 2017
鴎外が住んでいたのは、わずか10年間ですが、彼は遺書に「石見人(島根県民)森林太郎として死にたい」とつづっています。
彼は幼くして上京してからは東京で育ち、再び故郷を訪れることはありませんでした。
しかし心の奥底には、幼い日の原風景として津和野の生家での思い出が焼き付いていたのではないでしょうか。
誰でも幼い頃に過ごした家から離れれば、懐かしくそこを思い出し、あの場所へ戻りたいと願うものです。
鴎外は亡くなる直前にも、きっと津和野の生家を思い浮かべていたのでしょう。
今回は鴎外ゆかりの土地についてご紹介しました。
鴎外の旧宅であり多くの人に親しまれたホテルと、島根県の生家は、末永く保存されることで後世のファンも訪れてくれるでしょう。
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