森鴎外の脚気、安楽死への考え。何主義?性格がうかがえるエピソード

日本を代表する文豪として、その名を燦然と輝かせる森鴎外(もり おうがい)。

軍医としても活動をしていましたが、脚気と安楽死に対して独自の考えを持っていたようです。

一体どんな考えを抱いていたのでしょうか。

また主義主張はどのようなものだったのか、さらに彼の性格がうかがえるエピソードについても併せてご紹介していきます。

森鴎外のプロフィール

本名:森林太郎

生年月日:1862年2月17日

死没:1922年7月9日

身長:161cm

出身地:島根県津和野町町田

最終学歴:東京医学校(現在の東京大学医学部)

森鴎外の脚気に対する考え

まずは鴎外が、脚気に対してどのような考えを抱いていたのか、詳しく見てみましょう。

脚気についてですが、この病気はビタミンB1の不足により心不全などの症状が出るのが特徴で、昔は死の病として恐れられていました。


よく知られているのは、白米にビタミンB1が含まれておらず、白米ばかりを摂取すると脚気になりやすいという情報ですね。

江戸時代は身分の高い人が白米を食べていたので、麦飯が主食の庶民よりも、富裕層が患いやすかったとされています。

鴎外は日清と日露の両大戦で陸軍軍医として、当時軍隊で流行していた脚気への対策係を担うことになりました。

海軍医務局長だった高木兼寛は、西洋では脚気が流行していないことを知り、白米の弊害をいち早く察知。

海軍の兵食を麦飯に切り替え、脚気を根絶させています。

しかし陸軍の鴎外は、日本食も西洋食と同じくタンパク質の量などでバランスがとれており、白米が原因とは言い難いとして高木を非難。

実際に臨床実験を行い、栄養面で白米が最も優秀だと結論付けました。

結果的に陸軍では、海軍のように白米を控える対策を行いませんでした。

そして30万人もの脚気による死者が発生してしまうのです。

鴎外は脚気に対して誤った認識を持っていたとして、現在でもその責任を問われています。

しかし当時はビタミンに対する概念が浸透しておらず、一概に鴎外だけに責任があったとは言えないかもしれません。

当時は脚気が栄養不足による病気ではなく、伝染病であるという意見もあり、鴎外も後者を支持していたのです。

優秀な軍医で留学経験もあった鴎外でさえ認識を誤るほど、脚気という病気は当時の人にとって未知の脅威だったのでしょう。

森鴎外の安楽死への考え

次に鴎外の、安楽死への考えを見ていきます。

鴎外の次男である不律は百日咳で生後すぐ亡くなりますが、のちに作家となる長女の茉莉も同じ病気で苦しんでいました。

医者から、茉莉の命があと24時間しかもたないと告げられた鴎外は、勧められるがまま安楽死させることを受け入れます。

しかしそこへ鴎外の義父である荒木博臣がやって来て、「人間は寿命が尽きるまで、苦しくても生きなければならないものだ」と、鴎外と医者を叱りました。

荒木の反対により、茉莉は安楽死することなく、3日後には奇跡的に症状が回復したということです。

鴎外はこの体験をきっかけに、安楽死について生涯をかけて考えていたのでしょう。

代表作『高瀬舟』では、かみそりでの自殺をやり損ない苦しむ弟のために、兄がかみそりを抜いて死なせてやる描写があります。

これはまさに安楽死であり、鴎外はこの兄弟に慈悲深いまなざしを向けているような印象がありますね。

彼は安楽死をさせなかったおかげで娘を生かすことができたものの、苦痛を和らげるための安楽死そのものについては肯定していたのかもしれません。

娘こそ奇跡的に助かったものの、本来はあまりに壮絶な苦しみを引き延ばすくらいなら、死なせてやった方が良いという考えを抱いていたのでしょう。

森鴎外は何主義?

次に鴎外という文豪は、何主義に属していたのか見てみましょう。

自然主義やロマン主義など、当時の文学を主義ごとに分けることは可能ですが、鴎外はその考え方から何主義に属するのか想像しにくいですね。

筆者は高校時代、国語の教師から「鴎外は超越的知識人であり、分類できる主義や流派は存在しない」と教えられたことがあります。

しかし初期の作品である『舞姫』は、自我の解放を描いている点で、自由を重んじるロマン主義文学と言えるでしょう。

また『ヰタ・セクスアリス』では、主人公が性欲に溺れることを禁じており、当時主流だった性欲を生々しく描く自然主義文学に反抗しています。

夏目漱石も同じでしたが、鴎外は自然主義を批判する、いわば反自然主義文学を信奉していたと言えるでしょう。

しかし恋愛や性欲を生々しく描かず、あくまで禁欲的に描き上げる手腕は、鴎外と漱石しか持ち合わせていない印象があります。

天才的な二大文豪だからこそ、もはや一般的な主義を超越し、独自の路線を開拓することに成功したと言えるかもしれませんね。

また国家権力に対してはあくまで保守的に、良好な関係を維持しながら表現活動を行っています。

そのため政府が言論弾圧を強めても、官僚である鴎外は変わらず発言できる立場にいたので、彼を体制派だと非難する人もいました。

しかし言論弾圧に対して同調していたわけではなく、『最後の一句』のように、権力に抗う人物が登場する作品を多数残しています。


つまり直接的にではなく、自らは表現が封じられないよう、作品を通して巧みに政府を批判していたのです。

やはり超越的な知識人だからこそなせる業と言えますね。

森鴎外の性格を物語るエピソード

最後に鴎外の、知られざる性格をうかがわせるエピソードをご紹介します。

博識で幼い頃から学問に秀でていたことからうかがえる通り、かなり真面目で几帳面な性格だったと言われる鴎外。

ただその生真面目さは、時に常軌を逸している程でした。

文学者と軍医としての仕事をしっかりと分けていた鴎外は、文学者の友人から軍医として勤務中に話しかけられたため、激怒したという話があります。

几帳面すぎるその様子は、役柄に没入している時に本名を呼ばれたからと激怒する役者に近いですね。

またお酒に弱く、かなりの甘党だったそうです。

衛生学や細菌学を修めたため、相当な潔癖症だったということもあって、きちんと火を通した果物に砂糖をかけて食べることを好みました。

焼き芋は、消毒してあるからという理由で大好物だったとのこと。

ただしお風呂は細菌類の温床のため入らず、手ぬぐいで1日2回、身体を拭くだけでした。

神経質で潔癖な性格がうかがえる、面白いエピソードが多いですね。


鴎外の子供たちはそれぞれ回想録などで、父の思い出をつづっていますが、思い返してみると面白い話ばかりだったのでしょう。

今回は森鴎外の考え方と人柄についてまとめました。

明治を代表する知識人は、やはり周囲を超越した存在だったと言えるでしょう。

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