森鴎外、子供の変わった名前に由来あり。娘や息子がすごい&結婚歴まとめ

『舞姫』や『山椒大夫』で知られる明治の文豪・森鴎外(もり おうがい)。

医者としても活動し、明治期を代表する知識人という印象がありますが、その遺伝子を継いだ子供は変わった名前だったようです。

今回は鴎外の子供について、名前の由来、娘、息子の情報を見ていくと共に、鴎外の結婚の詳細を追っていきましょう。

森鴎外のプロフィール

本名:森林太郎

生年月日:1862年2月17日

死没:1922年7月9日

身長:161cm

出身地:島根県津和野町町田

最終学歴:東京医学校(現在の東京大学医学部)

森鴎外の子供。変わった名前の由来は?

まずは鴎外の子供について、変わった名前の由来を見てみましょう。

鴎外には子供が5人いて、男児が3人、女児が2人だったそうです。

それぞれの名前は、今で言うキラキラネームに近い、一風変わった名前でした。


順番に見ていくと、長男は於菟(おと)、長女は茉莉(まり)、次女は杏奴(あんぬ)、次男は不律(ふりつ)、三男は類(るい)です。

どれも当時としてはかなり変わった響きの名前ですが、なぜこんな名前を付けたのでしょうか。

鴎外はドイツに国費留学した経験のある、エリート国際人でした。

彼は本名の林太郎が、外国人にとって発音しづらい名前であることを知っていたので、子供たちには同じ苦労をさせまいと西洋風の名前を付けたのだそうです。

子供たちの名前を改めて順に見ていくと、オットー、マリー、アンヌ、フリッツ、ルイという外国人名が由来であることがわかりますね。

さらに於菟の子供も真章(まくす=マックス)、樊須(はんす=ハンス)など、同じように外国人名を採用しています。

孫たちにまで、鴎外の国際人として通用するようにという願いが、連綿とつながれていたのでしょう。

キラキラネームは森鴎外から始まっている?

子供に変わった名前をつける親は、現代でもいますよね。

森鴎外には、そうしたキラキラネームを最初に付けたという噂があります。

日本のキラキラネームの歴史は、森鴎外からスタートしているのでしょうか。

本当ならすごいことですが、本当に最古のキラキラネームである証拠が見つかったわけではないようです。

鴎外以前に変わった名前を付けた有名人が見当たらないため、噂になっているのでしょう。


もっと前に、キラキラな名前が存在した可能性もあるかもしれません。

とはいえ、鴎外以前がまだ確認されていないなら、今のところは元祖と考えてもよさそうですね。

キラキラネームが好きでつけたわけではない

鴎外の子供の名前に付いては、SNSでもよく話題になっています。

そんな話題の中では、「キラキラネームが好きだからつけた」と受け取れる話も出てきますね。

変わった名前の子供ばかりなら、好きで付けたと想像するのはわかります。

ただ、鴎外のキラキラネームには明確な理由がありました。

前述のとおり、海外でも通用する名前を考えた結果です。

もちろん鴎外本人が納得できる名前にしたはずなので、「好き」というのも間違いではないでしょう。

しかし、ただ好きな名前を付けたわけでもないということです。

現代のキラキラネームと一緒にしてはいけない?

子供のキラキラネームについては、ありかなしか、現代でも話題になることがあります。

その際、「あの森鴎外も付けていた」という話の流れになることもあるでしょう。


ただし、鴎外のキラキラネームは少し違うという意見もありますね。

確かに、鴎外が付けた名前は、子供たちが苦労をしないように考えたもの。

現代では親の自己満足で付けたような名前もありますが、そんな名前と一緒にはできないでしょう。

鴎外を例に出し、「だからどんな名前を付けてもいい」というのは違うわけです。

もちろん基本的には自由ですが、その名前を持った子供がどうなるのか、よく考えてから決めてほしいものですね。

森鴎外の娘、息子が優秀

次に鴎外の娘、息子についてより詳しい情報を見てみましょう。

長男の於菟は、鴎外の最初の妻である登志子との子供で、生後間もなく両親が離婚しています。

義母の志げからは冷たく扱われていたそうで、孤独な幼少期だったのかもしれません。

しかし勉学に励み、父と同じく医学者の道を進みました。

専門は解剖学で、東京帝国大学医学部を卒業、欧州留学を経て母校の助教授になっています。


一時期台湾大学の医学部で教授も務め、複数の大学で医学部長を歴任しました。

父の回想記も執筆し、鴎外にドイツ人の恋人がいたことも明らかにしています。

次に長女の茉莉は、鴎外の2番目の妻である志げとの間にできた娘で、優雅な作風で知られた小説家・エッセイストです。

『甘い蜜の部屋』で泉鏡花文学賞を受賞するなど活躍していますが、生活力はない人だったと言われています。

浮世離れした雰囲気の作品が多いため、エッセイだけでなく小説からも、お嬢様として育てられたことがよくわかります。

ただ一般人でも、作品の素敵な世界観を疑似体験することは可能なので、親しみやすさと言う点では父の鴎外の作品よりも人気を上回っているのかもしれませんね。

次女の杏奴も随筆家で、『晩年の父』という鴎外の回想録で知られています。

またパリに遊学して洋画を学び、画家の小堀四郎と結婚しました。

次男の不律は百日咳により、幼くして他界。

茉莉も百日咳で苦しんだようで、鴎外は子供を安楽死させるか瀬戸際まで悩みました。

この体験は安楽死をテーマとした名作『高瀬舟』に反映されています。


末っ子の類は画家を志し、杏奴と共に藤島武二から美術を学び、彼女と一緒にパリで遊学しました。

帰国後は美術講師、さらに随筆家として活動しています。

子供たちもまた父と同じく、文才と芸術的センスが高かったことがうかがえますね。

森鴎外の結婚歴

最後に鴎外の結婚についてご紹介します。

最初の妻である赤松登志子とは1889年(明治22年)に結婚しますが、翌年離婚。

その後は母に勧められた見合い相手の荒木志げと1902年(明治35年)に再婚します。

志げは進歩的な女性だったようで、『波瀾』という小説を執筆した他、婦人雑誌「青鞜」の賛助員でもありました。

娘たちも文才があるのは、父だけでなく母の教養と感性を引き継いだ影響も大きいのでしょう。


今回は森鴎外の子供、妻についてご紹介しました。

偉大なる知識人の子供たちは、やはりそれ相当の才能を持ち合わせていたのでしょう。

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