森鴎外の留学とロマンス。夏目漱石との関係。医者としては天才?東大に12歳で入学の英語力

明治期の文豪として誰もがその名を知る森鴎外(もり おうがい)。

留学経験があるということですが、詳細を見ていきましょう。

また日本文学史の二大巨頭として並び称される夏目漱石との関係もご紹介します。

さらに鴎外の医者としての一面、本当に天才だったか、東大出身という情報と英語力についても見ていきましょう。

森鴎外のプロフィール


本名:森林太郎

生年月日:1862年2月17日

死没:1922年7月9日

身長:161cm

出身地:島根県津和野町町田

最終学歴:東京医学校(現在の東京大学医学部)

森鴎外の留学経験

まずは森鴎外の留学について詳しく見ていきます。

陸軍の軍医だった鴎外は1884年(明治17年)、ドイツ帝国陸軍の衛生について調べるため、ドイツ留学を国から命じられました。

陸軍省派遣留学生として、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンにて、1年ごとに計4年間を過ごしています。

ベルリンでは北里柴三郎とも交流を持ち、細菌学を学びました。

ウィーンの万国衛生会に出席し、ドイツ語で講演も行うなど、日本を代表する医学者として活躍しています。

その裏で、ベルリンで出会ったドイツ人女性とのロマンスがあったようです。

1888年(明治21年)に帰国し、ドイツ人女性も来日していますが、すぐに離別。

この体験は『舞姫』の材料となりましたが、彼女のことを諦めきれなかった鴎外は、後年にも彼女に手紙を送ったそうです。

ドイツでの活躍と失恋は、鴎外の生涯に多大な影響を与え、作品にも反映されているのでしょう。

森鴎外と夏目漱石の関係

次に鴎外と夏目漱石の関係について見ていきましょう。

明治期を代表する知識人である鴎外と漱石は、1896年(明治29年)に子規庵の句会で初めて会っています。

鴎外は「おもひきつて出で立つ門の霰哉」、漱石は「先生や屋根に書を読む煤払」と詠みました。

その後も数回しか会っていないようですが、お互いの作品を認め合う仲だった2人。

著書を献呈するなどの交友はあったものの、深い関係にはならなかったそうです。

鴎外と漱石は、いずれも知識人らしく見事に計算された、低俗ではない小説を書きました。

小説と言うとかつては低俗な存在でしたが、この2人が小説の価値を「文学」という芸術へ高めたと言えるでしょう。

田山花袋の『蒲団』のような自然主義文学は、作者の汚点も赤裸々につづるのが特徴。

しかし鴎外と漱石は、濡れ場を生々しく描くようなことはせず、あくまで物事をきれいにまとめ上げます。

その点で2人は反自然主義文学の代表的作家です。

それを自覚しながら、互いを遠目から応援し合うスタンスを貫いて、刺激を受け合っていたのかもしれません。

医者の一面。天才だったのか

次に鴎外の医者としての一面と、天才だったのかについて見ていきます。

結論から言えば、鴎外は学問においては天才だったと言えます。

9歳の時点で15歳の学力があったとされ、文豪の中でも飛び抜けて知能指数が高かったはずです。

しかしだからと言って、医者としても天才だったかと言えばそんなことはないでしょう。

鴎外は日清日露の両大戦の時期に、陸軍軍医として、当時流行していた脚気の予防の責任者となりました。

脚気はビタミンB1の不足により起こる病気で、ビタミンB1を有していない白米食に偏っていた日本で多くの死者が発生。

しかし鴎外は脚気をあくまでも感染症だと考え、白米が原因ではないと結論付けています。

結果的に陸軍での脚気流行は収まらず、多くの死者を出したため、鴎外は医者としては大きな過ちを犯しているのです。

当時の医学的常識では対処しきれない病気だった脚気。

鴎外は医者として、未知の病気に対する革新的な予防法を思いつく天才ではなかったのです。

それどころか留学中に書いた論文も、捏造だったことが明らかになっています。

鴎外は、あくまで「相当な知識人」であって、天才ではなかったと言えるでしょう。

東大出身、英語力について


次に鴎外が東大出身という情報と、彼の英語力について見ていきます。

鴎外は現在の東京大学医学部にあたる東京医学校の予科に、12歳で入学しました。

現在の小学校6年生の時点で、東大に入ったということですから、驚異的なインテリですね。

しかし飛び級と言うわけではなく、年齢を2歳多く偽って入学したそうです。

それでも試験をパスできるほどの知能があったことは事実。

ただ19歳で本科を卒業するものの、首席ではなく8番目の成績だったため、研究者になる選択は不可能になってしまったようです。

卒業後は陸軍軍医副として東京陸軍病院に勤務し、ドイツ留学も果たしました。

ドイツ語が堪能であることは明白な鴎外ですが、英語力はどの程度の水準だったのでしょうか。

当時の知識人は気軽に外国人とつながれる現代人と異なり、バイリンガルレベルの会話は苦手だったことが推測できます。

しかし幼い頃からエリート教育を受けていた鴎外は、医者に必要な知識としてオランダ語も堪能でした。

10歳の時点でドイツ語を修得して、留学先でもネイティブレベルの会話をこなしています。

一般的に英語は最もシンプルな文法の語学ですから、オランダ語とドイツ語が堪能な鴎外が苦手だったはずがないでしょう。

とくに彼の強みは文法で、英単語を分解して語源を把握することで意味を覚える、語源学習法を取り入れています。

発音までネイティブレベルだったかは不明ですが、少なくとも専門用語も交えた難解な会話を英語でこなすことは可能だったはず。


鴎外は「語学の神様」と呼ぶにふさわしい人物だったということでしょう。

偉大な人物であることは事実ですが、天才と呼べる人物だったかについては再考の余地がありそうです。

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