三宅久之の死因。田嶋陽子とは仲良し&息子が市議会議員に。安倍晋三や田原総一朗との関係

三宅 久之(みやけ ひさゆき)さんは舌鋒鋭い政治評論家としてお茶の間でも人気でした。

残念ながら2012年に亡くなってしまわれましたが、直接の死因は何だったのでしょうか。

今回は三宅久之さんの死因や息子の様子、田原総一朗さんたちとの関係を見て行きます。

三宅久之の死因は持病の呼吸器系?

まずは亡くなられた三宅久之さんの死因について見て行きましょう。


三宅久之さんは2012年11月15日に都内の自宅で体調を崩して病院に搬送され、家族や関係者の願いもむなしくこの世と突然のお別れをする事態になりました。

その後の報道でも死因について詳しく報じることはありませんでしたが、亡くなる直前の11月3日に消化器系疾患の手術を受けて10日に退院したことが判明しています。

他にも糖尿病の持病があったことも明かしていたので、手術をした呼吸器系だけでなく糖尿病を起因とした心筋梗塞などの合併症が死に繋がった可能性も否定できません。

もっとも、周囲も手術の成功や術後の経過も良好で安心していただけに、容体の急変による突然の別れは大きな衝撃となって世間に伝わる形になりました。

三宅久之さんが亡くなって以降は自民党に対して強く言える保守系の評論家が居なくなり、それが結果として日本の政治レベルを落とす一因になったのかも知れませんね。

厳しい意見を言ってくれる身内というのは得難く大切なものなのです。

実は田嶋陽子と仲良しだった

次は宿命のライバルだった田嶋陽子さんとの関係を見て行きます。

ふたりはテレビ朝日の「TVタックル」や読売テレビの「そこまで言って委員会」などのトーク番組で共演していますが、ほとんどの場合で大ゲンカをするほど衝突していました。

政治的な考えは180度違うと言っても良いほどで、共演すると常に激しい議論をしています。

視聴者からすると「仲悪いんだ」と思うのが普通ですが、実際のところは政治的な話題を離れると和やかに会話をしたり、互いの趣味に理解を示すなど友好的な間柄だったのです。

三宅久之さんが評論家を引退した際には「寂しい」など体調を思いやる発言もしていました。

また、田嶋陽子さんがシャンソン歌手になった時には番組で冷やかしていたものの、コンサートには花と直筆の手紙を送るなど心優しい部分も数多くあったそうです。

三宅久之さんが亡くなった時には”まれに見る美しい老紳士”と在りし日の様子を思い浮かべ、意見は違ったものの尊敬をしていたと最上級の賛辞を送っていました。

ふたりは意見の違いを乗り越え、人間同士の友情で結ばれた”理想のライバル”だったのです。

三宅久之の息子が市会議員になっていた

ここでは三宅久之さんの息子が市会議員になっていた件を紹介します。

市会議員になっていたのは1964年7月30日に生まれた三男の眞(まこと)さんです。

画像を見て分かると思いますが、第一印象や感想は「凄い似ている!」がほとんどでしょう。

眞さんは2015年4月の狛江市議会議員選挙に初出馬して全体の2位で初当選を飾り、2019年4月の市議会選挙では2,787票を獲得してトップで再選を飾っています。

ちなみに、獲得した2,787票は狛江市議会における歴代トップの得票数であり、再選をしていることも眞さんが親の七光りだけの議員では無いことの証明になるでしょう。

また、眞さんは妻の介護をするために勤めていた会社を離職した経歴を持っているなど、親子そろって愛妻家というのは「三宅家のDNA」と言えるのかも知れませんね。

三宅久之は安倍応援団の中心人物だった

次は三宅久之さんが安倍晋三さんの復権に向けて動いた話を見て行きます。


ご存知の通り安倍晋三さんは2006年9月に史上最年少(52歳)で総理に就任しましたが、体調不良などもあって心ならずも約1年という短さで職を辞して非難を浴びました。

そんな安倍晋三さんを当時から応援し続け、再登板を勧めたのが三宅久之さんだったのです。

多くの著名人らと「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を結成し、自らが代表発起人となって「この国難を救えるのは君だけだ」と発破を掛けました。

同じ派閥の町村派(清和会)から町村信孝さんが出馬する意向を固めており、分裂選挙という政界のタブーを覚悟で立候補した裏には三宅久之さんらの活動があった訳です。

総裁選挙では安倍晋三さんが国会議員による決選投票で石破茂さんを破って25代総裁に就任。

就任して間もない2012年11月16日に野田政権が衆議院を解散し、12月16日投開票の「第46回衆議院議員選挙」で自民党が294議席を獲得して再び政権の座に返り咲きました。

しかしながら、解散前日の11月15日に三宅久之さんは亡くなってしまったので安倍晋三さんの総理再登板や、その後の政権運営を見届けることは出来なかったのです。

第二次安倍政権の業績が三宅久之さんの”お眼鏡にかなう”ものだったかは分かりませんが、少なくとも総理再登板への道筋をつけたことに対する満足感はあったことでしょう。

三宅久之と田原総一朗は犬猿の仲?

最後に政治報道の大物である田原総一朗さんとの関係を見ておきましょう。

ふたりの思想は水と油ほど違い、時事問題や政治家の評価を巡って口論を繰り広げていました。

上記の動画について番組名の記述はありませんでしたが、最後に山口もえさんの声が入っていたので読売テレビ「そこまで言って委員会」の可能性が高いです。

以前は田原総一朗さんが司会をする「朝まで生テレビ」に出演していましたが、同氏の持ち味とも言える”人の話を遮(さえぎ)る”やり方などに反発して出演を辞めていました。

この点については辛坊治郎さんに対して「田原総一朗みたいになってはいけません!」と発言していたらしく、番組における司会ぶりや話を遮ることに対する嫌悪感が伺えます。

不仲が噂された田島陽子さんとは議論を離れると良き友人関係でしたが、田原総一朗さんとは仕事外で仲が良いというエピソードは聞かれなかったので親しくは無さそうでした。


しかし、今では田原総一朗さんに対して正面から喧嘩をできる人は居なくなってしまったので、もしかすると良き喧嘩相手を失って寂しがっているのかも知れません。

もっとも、こんなことを言えば三宅久之さんから「一緒にするな」と一喝されるでしょうね。

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