京都学派に所属した哲学者の梅原猛(うめはら たけし)さん。
西洋哲学を批判し、古代日本の研究で独自の「梅原日本学」を確立しました。
息子も学問の道を進んでいるという情報と、孫の詳細を確認しましょう。
併せて京都の自宅、左翼思想、仏教の授業についても見ていきます。
梅原猛のプロフィール
本名:梅原猛
生年月日:1925年3月20日
死没:2019年1月12日
身長:不明
出身地:宮城県仙台市、愛知県知多郡
最終学歴:京都大学文学部哲学科卒業、京都大学大学院にて特別研究生(哲学専攻)
梅原猛の息子は梅原賢一郎
梅原さんの息子は、芸術学者として活動してきた梅原賢一郎さんです。
先日逝去した思想界の巨人梅原猛の特集号。ご子息の梅原賢一郎さんや瀬戸内寂聴、河合雅雄の追悼文、中沢新一、森村泰昌、山本容子、鎌田東二、安田登、畑中章宏の論考など「京都の貴重な宝」を様々に見送る内容。『ユリイカ総特集 梅原猛』(青土社) pic.twitter.com/ANmPLDQe18
— Title(タイトル) (@Title_books) March 25, 2019
京都造形芸術大学芸術学部の通信教育部で教授として、長年芸術学や美学を教えてきました。
梅原賢一郎の経歴
賢一郎さんは1953年に生まれて以来、京都府京都市に暮らしてきました。
京都大学大学院文学研究科を修了し、京都造形芸術大学芸術学部や滋賀県立大学人間文化学部の助教授を務めます。
京都造形芸術大学で教授となり、2019年3月に定年退職をしました。
『カミの現象学 身体から見た日本文化論』『感覚のレッスン』などの著作を発表しています。
梅原賢一郎の妻は福井謙一の娘
妻の美也子さんは、ノーベル賞学者である福井謙一さんの娘でした。
芸術学者の妻にふさわしく、一流学者の血を継いだ優秀な女性だったに違いありませんね。
賢一郎さんより1歳年下で、同じく京都府の生まれです。
神戸女学院大学を卒業し、1982年に結婚。
3人の息子を産み、育て上げました。
しかし2003年に肺がんを患い、長い闘病生活を送った後、2007年に亡くなります。
賢一郎さんは妻の死後、彼女への追悼本『不在の空 「いま・ここ」を生きた女性の肖像』を出版しました。
同書には遺稿やスケッチ、書簡集が収められており、賢一郎さんの妻への想いが詰まっています。
家族に深い愛情を注ぎ続けた、心優しい女性の生きた証がしっかりと残されたのですね。
梅原猛の孫は3人以上
梅原さんの孫は一般人のため、詳細はわかりません。
ただ少なくとも、賢一郎さんの息子が3人いるため、複数の孫に囲まれて幸せに過ごしていたのでしょう。
2019年1月12日、93歳で亡くなったときは、息子や孫たちに見守られていました。
孫たちからは「いい人生だったね」「ありがとう、おじいちゃん」などと言葉をかけられたそうです。
梅原さんは孫たちの言葉に、満足そうな表情を浮かべて旅立ちました。
哲学界に大きな足跡を残した末に、愛する家族に旅立ちを祝福してもらえたのは、確かに「いい人生」と言えますね。
これ以上ないほど、理想的な最期の様子です。
梅原猛の京都の自宅は密語菴
梅原さんは長年、京都府京都市で暮らしてきました。
自宅は明治中期に建てられた、「密語菴(みつごあん)」という数寄屋造の住宅でした。
若王寺神社境内に隣接している、広大な敷地に建つ立派な建造物です。
洗練されたデザインが魅力で、中央の玄関部、西側の居住部分、東側の茶室や客室を有しています。
元々は実業家・美術収集家だった原三渓(はら さんけい)の番頭・古郷時侍の旧宅でした。
番頭は使用人の中でトップクラスの統率者のため、かなり待遇が良かったことが、上質な自宅の様子からもうかがえます。
後に哲学者の和辻哲郎も暮らした密語菴。
和辻哲郎が暮らした京都若王子の自宅は、もとは実業家・原三渓(横浜に三渓園をつくった人)の番頭を務めた古郷時侍の邸宅。密語菴/密語庵と称される。のち梅原猛邸となった。近所に住んでいた私は、ここから北へ伸びる哲学の道を散歩する梅原氏とすれちがったことがある。https://t.co/IFMJpGb3c6
— Tomoki Yamabayashi (@tomokilove) July 22, 2021
国指定の文化財にも登録された、文化人の気配を感じられる歴史的スポットです。
梅原猛は単なる左翼ではない異端児の哲学者
梅原さんは憲法九条改正に反対する「九条の会」の呼びかけ人の1人でした。
「九条の会」の活動には、日本の武力行使を否定し、戦争に反対する左翼系の文化人が多く賛同しています。
そのため梅原さんを左翼と考えた人もいるはずです。
しかし彼の思想は、西洋哲学を否定し、日本古来の美学を重視するものでした。
愛国を掲げる右翼思想の方が、むしろ思想的には梅原哲学の考え方と通じるものがあるかもしれません。
きっと梅原さんは、左翼や右翼に分類できない複雑な思想の持ち主だったのでしょう。
日本古来の美学を尊重し、多くの右翼のように天皇制も支持していました。
しかし右翼が賛同する、公人の靖国神社参拝や憲法改正には反対。
それは梅原さん自身が戦争体験者であり、勤労動員の仲間を空襲で失った経験があるためでしょう。
戦時中「自分は死ぬ」と確信し、「死」の理由を探し求めるために哲学書や宗教書を読み漁りました。
壮絶な戦争体験とそれによって培われた哲学で、梅原さんは左翼や右翼には分類されない、「異端児」的な学者となったのです。
そもそも日本の伝統芸能を愛する左派的感覚の人や、戦争を嫌う右派的感覚のもいるはず。
梅原さんの生涯を知ると、左右の色眼鏡をかけて人を断定しようとすること自体がナンセンスだと思えてきますね。
梅原猛の仏教の授業
梅原さんは「凶悪な少年犯罪が日本で起きるのは、小中学生に宗教教育に基づく道徳を教えていないためだ」と考えていました。
そこで彼は、洛南高等学校附属中学校で一学期間のみ教壇に立ち、平易な言葉で仏教を教えることにしたのです。
仏教の中でも特に真言密教をメインとして、人生において大切な考え方を伝えました。
授業の内容は朝日文庫から『梅原猛の授業 仏教』として出版されています。
授業では、自然を破壊し、自分中心の身勝手な生活を送ってきた人間の歴史を解説。
梅原猛の授業 仏教は梅原先生が洛南中学で行った授業。神がいなければ文明も道徳も存在しない。西の文明は小麦農業で森の神が殺されて都市文明が生まれた。そして人間中心の思想。東は稲作農業で自然と共生する思想。グローバリズムは露骨な資本主義の支配。仏教の自利利他の精神の必要性を説いている pic.twitter.com/n3OX81pMmm
— ワイルド7 (@YN1529) June 8, 2020
梅原猛の授業 仏教
梅原猛さんが2001年に洛南中学で行った授業の記録。こんな授業受けてみたかった、、、。
宗教がなぜ必要なのか。「宗教がなければ文明もなかった」という『カラマーゾフの兄弟』からの引用が衝撃だった。今の時代にこそ仏教が必要。 pic.twitter.com/yQtYMtJEZF— 空海@綜芸種智院 (@91hE7l623M1vntY) January 12, 2020
その上で、自身の悟りのため努力すること、他人の救済のため尽くすことを行う「自利他利」の思想を教えたそうです。
子供に限らず大人に向けても、自分中心の考え方を見直し、正しく生きるためのヒントを投げかけてくれる書籍ですね。
梅原さんは亡くなりましたが、仏教の授業における貴重な講義内容は今でも気軽に知ることができます。
ぜひ書籍を手に取って、自分の生き方を見直す有意義な時間を設けてみてはいかがでしょうか。
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