『坊っちゃん』や『こころ』でおなじみの文豪・夏目漱石(なつめ そうせき)。
小説家としての知名度はかなり高いですが、デビュー前は英語教師でした。
今回は漱石の熊本、愛媛の松山中学での教師時代に迫ります。
また二松学舎出身という情報を確認し、経歴をまとめます。
夏目漱石のプロフィール
本名:夏目金之助
生年月日:1867年2月9日(慶応3年1月5日)
死没:1916年12月9日
身長:推定159cm
出身地:牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)
最終学歴:帝国大学英文科(現在の東京大学)
夏目漱石の熊本での教師時代
漱石は1896年(明治29年)、現在の熊本大学である第五高等学校の英語教師となりました。
熊本に滞在した期間は4年3か月で、慣れない環境だったためか、住みやすい場所を求めて6回も転居したそうです。
今日は漱石忌(夏目漱石の命日)!
夏目漱石は1896年(明治29年)旧制第五高等学校の英語教師として愛媛県松山市から熊本に赴任しました
熊本での暮らしは1896年(明治29年)4月から1900年(明治33年)7月まで4年3か月の期間でした pic.twitter.com/v0UUKrV6nc— 九州文化財研究所🏯 (@kyubunken) December 9, 2020
5回目に転居した熊本市中央区の家で、最長の1年8か月を過ごしました。
新妻の鏡子夫人が、長女の筆子を産んだ家のため、家族には思い入れの深い場所となったのでしょう。
漱石は「熊本時代の家ではいちばん良かった」と語っています。
熊本県熊本市・夏目漱石内坪井旧居
明治29年に五高(現熊本大学)に赴任してきた漱石が住んでいたそうです。漱石は熊本滞在中、6回も引っ越しをしたそうですが、その中でも一番気に入っていた家だそうです。地震の影響で庭までしか入ることができませんが、それでも十分、必見です! pic.twitter.com/VDrkdKywCY
— 千船翔子 (@ShokoChifuna) June 5, 2018
漱石の五高時代の教え子には、著名な物理学者で随筆家の寺田寅彦がいました。
寺田はかつて漱石に「ご自宅へ泊めて欲しい」と頼んだそうで、彼が泊まった馬丁小屋は今でも残っています。
旧居は記念館として無料公開されていましたが、2020年3月から工事により休館中です。
夏目漱石旧家跡。
熊本地震で壊れたので、復旧工事中。#彼は引っ越し魔 pic.twitter.com/yXs0kWPGa2
— 眞藤 隆次 Shindo Takatsugu 体積削減中。 (@kqmpb540) October 11, 2020
再び公開されれば、漱石の直筆や、五高時代の写真も見られるでしょう。
漱石は『坊っちゃん』で描いた愛媛県松山市での教師生活が有名ですが、実は熊本で過ごした期間の方が長かったのです。
熊本は漱石に縁がある土地のため、文学ファンなら一度は訪れる価値があるでしょう。
夏目漱石の愛媛、松山中学での教師時代
熊本の五高時代に比べると、愛媛の松山中学時代の方が有名エピソードも多いでしょう。
クラシカルな道後温泉駅🚉
そして、夏目漱石の坊ちゃん時計が動き出すのを待つ坊ちゃん👶 pic.twitter.com/OPiEXpzmHO— No other love (@mikom0424) March 6, 2021
1895年(明治28年)、漱石は現在の愛媛県立松山東高等学校にあたる松山中学へ赴任しました。
熊本に赴任する前年のことで、わずか1年ほどの赴任期間だったそうです。
それでも漱石と松山を結びつける人が多いのは、やはり有名な作品に描かれたためでしょう。
自伝的な代表作『坊っちゃん』では、東京から来た教師が松山市の学校で奮闘する姿を描きました。
主人公は松山を、「東京に比べて劣っている」と嘲りますが、これは漱石の松山に対する愛情の裏返しといえるかもしれません。
松山の中でも道後温泉がお気に入りだった漱石は、知人あての手紙で同温泉を称賛しています。
#道後温泉 がトレンド入りしてたから過去の旅行写真載せます!
道後温泉や萬翠荘、載せてないけど坂の上の雲ミュージアムとか建築めぐり楽しかったなぁ。
鯛めしもまた食べたいし、夏目漱石がお気に入りだったというカフェも居心地が良かった…🍃 pic.twitter.com/2ScGbxQTaQ— みーーあ🍇 (@mia_bbb_kysh) March 10, 2021
坊っちゃんにも、「温泉だけは立派」と語らせました。
忙しい教師生活の合間に、足しげく通っていた道後温泉。
温泉で疲れを癒しながら、つかの間の安らぎを味わっていたのでしょう。
夏目漱石は二松学舎出身?
漱石は少年時代に、二松学舎で学びました。
二松学舎は今でも、二松学舎大学と附属校を運営しています。
起源は1877年(明治10年)、漢学者の三島中洲が拓いた漢学塾。
2019年の大河ドラマ『いだてん』でおなじみの柔道家・嘉納治五郎も、二松学舎で学びました。
漱石は1881年(明治14年)、二松学舎に通い始めます。
彼によると校舎の様子は、「実に不完全」で、講堂は非常に汚かったそうです。
生徒は不潔な講堂へ順序も関係なく座り込み、講義を聴いたといいます。
衛生環境は悪かったものの、漱石は唐詩選や論語を意欲的に学び、漢詩の知識を身につけました。
たった1年の在学期間でしたが、少年時代に培った漢詩の知識は、のちに小説を書く際にも活かされます。
二松学舎で学んだ漢詩は、彼にとって一生の財産になったはず。
近年は二松学舎大学で、漱石のアンドロイドが講義し、話題になりました。
先週、国文学科1年生の「日本文学概論」で夏目漱石特別教授(漱石アンドロイド)の授業があったニャ!満場の拍手に迎えられ、漱石先生が登場。みんニャ、漱石先生のお話を静かに聞いてたニャ。お話の後、撮影会もあって、すごく楽しそうな授業だったニャ~❣️#二松学舎大学 #ねこ松 #漱石アンドロイド pic.twitter.com/YTK1aKtvoo
— ねこ松(二松學舍公式キャラクター) (@nekomatsu_nisho) April 23, 2019
在学期間は短かったものの、彼にとって二松学舎は思い出深い場所だったのでしょう。
夏目漱石の経歴まとめ
漱石が教師から作家に転身するまでの経歴をまとめましょう。
現在の東京大学で英文学を学んだ漱石は、在学中の1892年(明治25年)には早稲田大学の前身「東京専門学校」講師となっています。
その後は大学院へ進学し、高等師範学校の教師を経て、1895年(明治28年)に松山中学へ赴任。
鏡子夫人と婚約したのち、熊本の第五高等学校へ赴任します。
1900年(明治33年)にイギリスへ国費留学し、3年後には第一高等学校講師と東京帝国大学の講師を兼任。
1904年(明治37年)には明治大学講師も兼任しました。
翌年に知人からすすめられ、初めての小説『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に連載し、作家デビューを果たします。
以降はおよそ10年間、小説家として活動しました。
漱石作品には漢詩や英文学の知識がちりばめられています。
作家になるまでの教師生活と留学経験が、題材として活かされているのでしょう。
文学者として数々の弟子に慕われた漱石。
教え子を育てるコツを、長年の教師生活で身につけたのかもしれませんね。
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