夏目漱石、結婚した鏡子は悪妻?夫婦の愛の手紙、身投げ騒動について

江戸時代に生まれた小説家でありながら、いまだ古さを感じさせず、多くの日本人に読み継がれている夏目漱石(なつめそうせき)。

長いこと鏡子夫人の悪妻説がまかり通っていましたが、近年そのイメージは覆りつつあるようです。

そもそも、なぜ鏡子夫人は悪妻のレッテルを貼られてしまったのでしょう。

夫妻が交わした手紙や夫人の身投げ騒動を通して、知られざる文豪の結婚生活をのぞいてみたいと思います。

夏目漱石と妻・鏡子はお見合いで結婚

貴族院書記官長だった中根重一の長女・中根鏡子とお見合いをした時、夏目漱石はまだ小説家ではありませんでした。

猫を語り手にしたユーモラスな小説『吾輩は猫である』を発表する10年前のことです。

当時、漱石は『坊っちゃん』のモチーフとなる愛媛の松山中学の英語教師。


お見合い話が持ち上がった頃、鏡子の父・重一の官舎は虎ノ門にあり、彼女は書生・家政婦・車夫に囲まれた環境で暮らすお嬢様でした。

見合い写真の漱石を見て、上品で穏やかそうな人という印象を抱いた鏡子。

一方、漱石は初対面の鏡子を見て、歯並びの悪さを隠そうとせず明るく笑うところに好ましさを感じます。

そんな誉められ方をされた女性がうれしいかどうかは微妙ですが、裏表がなく、物怖じしない鏡子の内面性を見抜いたのかもしれませんね。

婚約が成立した時、漱石は28歳、鏡子は18歳。

二人は翌年結婚し、同時期に漱石は熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)の講師となり、同地での新婚生活がはじまります。

ところが、お嬢様育ちの鏡子は朝寝坊で料理が苦手。

夫にたしなめられると、持論を述べてやりこめることもあったそう。

とはいえ夫婦仲が悪かったわけではありません。

英国留学で重度の神経症になった漱石は、時おり癇癪(かんしゃく)の発作に襲われて家族に手を上げるようになりました。

しかし周囲からの離婚のすすめを鏡子ははねつけて、病気の夫と子供たちを支えます。

また漱石が大吐血により死の淵をさまよった「修善寺の大患」の際も、意識を取り戻した漱石が真っ先に探したのは妻でした。

漱石を慕う教え子や若手文学者らが集う「木曜会」では鏡子が若者たちの母親代わり。

新婚時代の世間知らずな若奥様から、妻として母としてたくましく成長したようすがうかがえます。

本名が「キヨ」であることから、『坊っちゃん』に登場するばあや・清(きよ)のモデルは鏡子夫人ではないかという説があります。

漱石のことを誰よりも理解し、おおらかな愛情で見守る姿が重なります。

なぜ鏡子は悪妻と呼ばれた?

鏡子夫人が悪妻、猛妻と呼ばれるようになったのは『漱石の思い出』がきっかけでした。

この筆録は、ご本人が語った生前の漱石の思い出を長女の夫で小説家の松岡譲(まつおかゆずる)がまとめたもの。

そこには20年にわたる結婚生活がオープンに語られており、癇癪をおこして家族を悩ませる困った漱石の姿も。

文豪・夏目漱石のイメージを貶める行為として、「木曜会」の門弟を中心に「冒瀆である」と非難の声があがります。

神経症の症状が出ていない時の漱石は子煩悩で穏やかな紳士だったと鏡子自身も証言しているのですが、彼女にとってはどちらの姿も夫であり、ほかの誰にも代えがたい愛しい存在だったのでしょう。

ともあれ、さまざまな病魔に悩まされた漱石のそばを最後まで離れなかったところに妻としての並外れた胆力を感じます。

鏡子夫人は1963年4月18日、大田区にある自宅で85歳で永眠。

2023年現在、夫妻は東京・雑司ヶ谷の墓所に仲よく眠っています。

夫妻が交わした愛の手紙、新婚時代の身投げ騒動

手紙好きとして知られ、数多くの書簡も残っている夏目漱石。

若き日には留学先のロンドンで妻からの手紙を待ちわびて、自ら恋文を書いています。

その内容は、しきりにおまえが恋しい、これだけは誉めてもらいたい、浮気はしていないから安心しなさいといったストレートな愛の言葉。


鏡子もまた、私のことをお忘れにならないでくださいね、会うまでは死ねません、などと熱烈な返事を送っています。

書いて気恥ずかしくなったのか、この手紙は読んだら破棄してくださいとお願いしているのですが、しっかりと残っています。

漱石は破りもせずに日本へ持ち帰ったようですね。

また別のある時には、もし夫の船が沈没して二度と日本に戻らなかったら、身投げでもして後を追うつもりだったと語ったことも。

漱石と生死をともにするほどの覚悟や真剣な想いがあったのでしょう。

身投げといえば、新婚時代のエピソードとして有名なのが鏡子の自殺未遂事件です。

熊本での暮らしがスタートして3年目、慣れない田舎暮らしや初めての子供の流産もあってヒステリー症状が悪化。

ある日の朝、梅雨期で水量の増した白川に、彼女は投身を図ります。

運よく漁をしていた者に助けられて一命をとりとめますが、この一件のあと、漱石はしばらくのあいだ、お互いの手首に紐を結んで眠りについていたそうです。

世間から「悪妻」と呼ばれても、弁解もしなければ漱石の悪口も言わなかった鏡子夫人。

神経質で繊細な夫と違い、おおらかで気丈な妻だったからこそ、夏目漱石の妻が務まったのかもしれません。

漱石もそんな鏡子を必要とし、頼りに思っていたのではないでしょうか。


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