夏目漱石、結婚した鏡子は悪妻?夫婦の愛の手紙、身投げ騒動について

江戸時代に生まれた小説家でありながら、いまだ古さを感じさせず、多くの日本人に読み継がれている夏目漱石(なつめそうせき)。

長いこと鏡子夫人の悪妻説がまかり通っていましたが、近年そのイメージは覆りつつあるようです。

そもそも、なぜ鏡子夫人は悪妻のレッテルを貼られてしまったのでしょう。

夫妻が交わした手紙や夫人の身投げ騒動を通して、知られざる文豪の結婚生活をのぞいてみたいと思います。

夏目漱石のプロフィール

本名:夏目金之助

生年月日:1867年2月9日(慶応3年1月5日)

死没:1916年12月9日

身長:推定159cm

出身地:牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)

最終学歴:帝国大学英文科(現在の東京大学)

夏目漱石の結婚と馴れ初め

夏目漱石は、日本の近代文学を代表する作家であり、その作品は多くの人々に影響を与えました。

彼の結婚生活もまた、興味深いエピソードに満ちています。

ここでは、漱石と妻の鏡子の馴れ初めについて詳しく見ていきます。

夏目漱石と鏡子の馴れ初め

夏目漱石と鏡子の出会いは、漱石の友人である中根重一の紹介によるものでした。


中根は、漱石が結婚相手を探していることを知り、鏡子を紹介しました。

  • 鏡子は、名家の出身であり、非常に教養のある女性でした。
  • 漱石は、鏡子と初めて会った際、彼女の聡明さと美しさに惹かれたと言われています。
  • 二人はすぐに意気投合し、短期間で結婚に至りました。

結婚後、漱石は鏡子に対して「君は僕の妻になるべき人だ」と宣言したと伝えられています。

この言葉は、漱石の鏡子に対する深い愛情と信頼を示しています。

新婚生活とその後のエピソード

新婚生活は、漱石と鏡子にとって新たな挑戦の連続でした。

特に、漱石の病気や仕事のストレスが二人の関係に影響を与えました。

  • 漱石は新婚早々、鏡子に「君は僕の妻として、僕の病気を支える覚悟があるか?」と尋ねたと言われています。
  • 鏡子はその問いに対し、強い意志で「はい」と答え、漱石を支える決意を固めました。
  • 漱石の病気が悪化した際、鏡子は献身的な看護を続け、その姿勢は多くの人々に感銘を与えました。

鏡子は、漱石の病気や精神的な不安定さに対しても、常に支え続けました。

彼女の献身的な姿勢は、漱石の作品にも影響を与えたと考えられます。

例えば、漱石の『こころ』や『それから』などの作品には、夫婦の絆や愛情について深く掘り下げた描写が見られます。

漱石と鏡子の結婚生活は、決して順風満帆ではありませんでしたが、二人の間には深い愛情と信頼があったことが伺えます。

彼らの馴れ初めや新婚生活のエピソードは、漱石さんの文学作品に多くのインスピレーションを与え、彼の作品をより深く理解する手がかりとなります。

夏目漱石と鏡子の結婚は、彼の人生と作品において重要な位置を占めていると言えるでしょう。

なぜ鏡子は悪妻と呼ばれた?

鏡子夫人が悪妻、猛妻と呼ばれるようになったのは『漱石の思い出』がきっかけでした。

この筆録は、ご本人が語った生前の漱石の思い出を長女の夫で小説家の松岡譲(まつおかゆずる)がまとめたもの。

そこには20年にわたる結婚生活がオープンに語られており、癇癪をおこして家族を悩ませる困った漱石の姿も。

文豪・夏目漱石のイメージを貶める行為として、「木曜会」の門弟を中心に「冒瀆である」と非難の声があがります。

神経症の症状が出ていない時の漱石は子煩悩で穏やかな紳士だったと鏡子自身も証言しているのですが、彼女にとってはどちらの姿も夫であり、ほかの誰にも代えがたい愛しい存在だったのでしょう。

ともあれ、さまざまな病魔に悩まされた漱石のそばを最後まで離れなかったところに妻としての並外れた胆力を感じます。

鏡子夫人は1963年4月18日、大田区にある自宅で85歳で永眠。

2024現在、夫妻は東京・雑司ヶ谷の墓所に仲よく眠っています。

夫妻が交わした愛の手紙、新婚時代の身投げ騒動

手紙好きとして知られ、数多くの書簡も残っている夏目漱石。

若き日には留学先のロンドンで妻からの手紙を待ちわびて、自ら恋文を書いています。

その内容は、しきりにおまえが恋しい、これだけは誉めてもらいたい、浮気はしていないから安心しなさいといったストレートな愛の言葉。

鏡子もまた、私のことをお忘れにならないでくださいね、会うまでは死ねません、などと熱烈な返事を送っています。

書いて気恥ずかしくなったのか、この手紙は読んだら破棄してくださいとお願いしているのですが、しっかりと残っています。


漱石は破りもせずに日本へ持ち帰ったようですね。

また別のある時には、もし夫の船が沈没して二度と日本に戻らなかったら、身投げでもして後を追うつもりだったと語ったことも。

漱石と生死をともにするほどの覚悟や真剣な想いがあったのでしょう。

身投げといえば、新婚時代のエピソードとして有名なのが鏡子の自殺未遂事件です。

熊本での暮らしがスタートして3年目、慣れない田舎暮らしや初めての子供の流産もあってヒステリー症状が悪化。

ある日の朝、梅雨期で水量の増した白川に、彼女は投身を図ります。

運よく漁をしていた者に助けられて一命をとりとめますが、この一件のあと、漱石はしばらくのあいだ、お互いの手首に紐を結んで眠りについていたそうです。

世間から「悪妻」と呼ばれても、弁解もしなければ漱石の悪口も言わなかった鏡子夫人。


神経質で繊細な夫と違い、おおらかで気丈な妻だったからこそ、夏目漱石の妻が務まったのかもしれません。

漱石もそんな鏡子を必要とし、頼りに思っていたのではないでしょうか。

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