逸見政孝の息子と娘は芸能人。妻・晴恵は自宅ローン返済と闘病。弟もがんで他界

「いっつみい」の愛称で親しまれ、真面目な風貌とノリのよさのギャップから絶大な好感度を誇った逸見政孝(いつみまさたか)さん。

その早過ぎる死は多くの人に惜しまれましたが、残された家族は2024年現在どうしているのでしょう。

大黒柱を失った妻、息子、娘が直面した試練をはじめ、同じくスキルス性胃がんで早逝した弟について取り上げます。

逸見政孝のプロフィール

本名:逸見 政孝

生年月日:1945年2月16日

身長:176センチ

血液型:B型

出身地:大阪府 大阪市 阿倍野区

最終学歴:早稲田大学第一文学部

逸見政孝の息子は俳優・逸見太郎

逸見政孝さんは、日本のフリーアナウンサー、テレビ司会者、タレントとして広く知られています。

彼の家族もまた、多くの人々に注目されています。

特に息子の逸見太郎さんは、父親の影響を受けながらも独自のキャリアを築いています。


ここでは、逸見政孝さんと息子の逸見太郎さんの関係について詳しく見ていきます。

逸見太郎さんの生い立ちとキャリア

逸見太郎さんは、逸見政孝さんと妻の晴恵さんの間に生まれました。

彼は父親の影響を受け、メディア業界でのキャリアをスタートさせました。

  • 逸見太郎さんは、映画『HANA-BI』で俳優デビューを果たしました。
  • その後、テレビドラマやバラエティ番組などで活躍し、多くのファンを獲得しました。
  • 現在も俳優、タレント、司会者として幅広い分野で活動を続けています。


逸見太郎さんのキャリアは、父親の影響を受けつつも、彼自身の努力と才能によって築かれたものです。

彼は、父親の逸見政孝さんが築いた信頼と尊敬を引き継ぎつつ、新たな道を切り開いています。

父親との絆と影響

逸見政孝さんと逸見太郎さんの関係は、非常に深いものでした。

父親としての逸見政孝さんは、息子に対して多くの教えを残しました。

  • 逸見政孝さんは、息子に対して常に誠実であることの重要性を教えました。
  • 太郎さんは、父親の教えを受けて、メディア業界でのキャリアを築く上での指針としています。
  • 父親の死後も、太郎さんはその教えを胸に刻み、家族を大切にしながら活動を続けています。

逸見太郎さんは、父親の逸見政孝さんが遺した遺書を通じて、家族への深い愛情と絆を感じています。


彼はその遺書を「息子への遺書」として大切にし、父親の教えを次の世代に伝えようとしています。

逸見政孝さんの影響は、逸見太郎さんのキャリアだけでなく、彼の人生全体に深く根付いています。

太郎さんは、父親の教えを受け継ぎながら、自らの道を歩んでいます。

彼の活動は、父親の逸見政孝さんが築いた遺産をさらに豊かにするものであり、その影響は今後も続いていくことでしょう。

逸見政孝さんと息子の逸見太郎さんの関係は、家族の絆の強さを示す一例です。

太郎さんは、父親の影響を受けながらも、自らの努力で独自のキャリアを築いています。

彼の活動は、父親の逸見政孝さんが遺した遺産をさらに豊かにするものであり、その影響は今後も続いていくことが予想されます。

逸見政孝の娘・逸見愛も芸能人

逸見政孝さんは、日本のテレビ界で活躍した伝説的なアナウンサーとして知られています。


彼の娘である逸見愛さんも、父の影響を受けながら独自のキャリアを築いています。

ここでは、逸見愛さんのプロフィールや活動、そして父親との関係について詳しく見ていきます。

逸見愛さんのプロフィールとキャリア

逸見愛さんは、1975年3月10日に東京都で生まれました。

父親の逸見政孝さん、母親の逸見晴恵さん、そして兄の逸見太郎さんという家族構成の中で育ちました。

  • 身長167cm、血液型O型の逸見愛さんは、女優、タレント、リポーターとして活躍しています。
  • 1997年にデビューし、テレビドラマや舞台、バラエティ番組など幅広い分野で活動しています。
  • スポーツニュースのレポーターとしても知られ、特に野球選手の松井秀喜さんの番記者を務めたことがあります。


逸見愛さんは、父親の影響を受けつつも、自身の個性を生かしたキャリアを築いてきました。

彼女の活動は、テレビやステージにとどまらず、絵画など多岐にわたっています。

実際に、「第24回世田谷区民絵画展」で銅賞を受賞するなど、芸術分野でも才能を発揮しています。

逸見愛さんの多彩な活動は、父親の逸見政孝さんから受け継いだ好奇心と向上心の表れと言えるでしょう。

彼女は、メディアの世界で育った経験を生かしながら、自身の興味や才能を追求し続けています。

父・逸見政孝さんとの絆

逸見政孝さんと逸見愛さんの父娘関係は、非常に深いものでした。

父親としての逸見政孝さんは、娘に対して多くの影響を与えました。

  • 逸見政孝さんは、家族を大切にする人物として知られており、娘の愛さんもその影響を強く受けています。
  • 父親の闘病生活を通じて、逸見愛さんは命の尊さや家族の絆の重要性を深く学んだと言われています。
  • 逸見政孝さんの遺した言葉や教えは、今も逸見愛さんの人生の指針となっています。

逸見政孝さんの突然の死は、家族に大きな衝撃を与えましたが、逸見愛さんは父親の遺志を継ぎ、メディアの世界で自身の道を切り開いていきました。

彼女の活動は、父親の逸見政孝さんが築いた信頼と尊敬を引き継ぎつつ、新たな価値を創造するものとなっています。

逸見愛さんは、父親の教えを胸に刻みながら、家族を大切にし、自身のキャリアを築いています。

彼女の活動は、逸見政孝さんの遺産をさらに豊かにするものであり、その影響は今後も続いていくことでしょう。

逸見愛さんの姿勢は、家族の絆の強さと、親から子へと受け継がれる価値観の重要性を示す良い例となっています。

妻・晴恵は自宅ローン返済と闘病の日々

妻の晴恵さんは長らく専業主婦でしたが、夫のフリー転向・独立を機に「オフィスいっつみい」(現在の「株式会社オフィスいつみ」)を設立し、社長に就任。

1993年12月25日、逸見政孝さんが48歳で他界したあとに家族に襲いかかったのは莫大な借金でした。

逸見さんは1992年秋、家族のために世田谷区奥沢に12億円の家を新築。

3階建て、7LDKのイギリス風の大豪邸です。

生命保険と預貯金をかき集めて7億円を返済したものの、それでも差し引き5億円のローンが残っていました。


晴恵さんに残されたのは、まだ学生の二人の子供と多額の借金。

あまりに早く逝ってしまった夫の死を受け入れられないまま、晴恵さんはエッセイの執筆や講演活動、テレビ出演をこなして返済を続けます。

ところが追いうちをかけるように、夫の死の半年後に子宮頸がんが発覚。

さらに血液細胞のがんのひとつである骨髄異形成症候群も発症。

そんな晴恵さんに対して、借金があるとはいえ、家を売却すればすむことと冷たい反応をみせる人もいたそうです。

子供たちに家の売却をすすめられても、頑として拒絶したという晴恵さん。

逸見政孝さんが夢の新居で暮らした時間は1年足らずでした。

もしかしたら彼女には、夫の成功の証であるこの家を妻のプライドにかけても守りたいという意地があったのかもしれません。

そうだとしたら、ある種の凄みさえ感じます。

二人の子供も芸能界に入り、家計を助けますが、晴恵さんは2010年10月21日、肺胞蛋白症のため61歳で死去。

親しい友人のなかには「奥さんはあの家に殺されたのよ」と明言する人もいるとのこと。

太郎さんによると、晴恵さんの生命保険で借金は完済したとのことです。

逸見政孝の弟も胃がんで他界

日頃から人一倍がんを気をつけ、年に一度の検診も欠かさず受けていたという逸見政孝さん。

なぜなら、2歳年下の弟を31歳の若さでがんで亡くしていたからです。


スキルス性の胃がんでした。

逸見政孝さんは、1993年に開いたがん公表会見でも弟の病死に言及しています。

その13年後、皮肉にも自身も同じ病魔におかされて命を落とすことになりました。

フリーアナウンサー同士である古舘伊知郎さんの姉ががんで他界した際、きょうだいを若くしてがんで失う悲しみを知る者として、古舘さんにお悔やみの手紙を書いています。

これを機に二人は親交を深め、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』休養中には古舘さんが代理司会を務めたこともありました。

ベスト・ファーザー イエローリボン賞に選ばれたこともある逸見政孝さん。

新築した豪邸で、残された家族が紡いだ思い出はたくさんあったことでしょう。

晴恵さん亡きあと、高額な固定資産税を含む維持費は居住者である太郎さんが負担することになりました。


今後は大規模な修繕の必要性もでてくると思います。

太郎さんがどのような決断を下しても、天国の両親は許してくれるのではないでしょうか。

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