何本もの看板番組をもち、名司会者として多くの人に愛されたフリーアナウンサーの逸見政孝(いつみまさたか)さん。
まさに人気の絶頂にあった時、逸見さんの身体は病魔に襲われていました。
この記事では壮絶な闘病生活を振り返るとともに、スキルス性胃がんによる死因、最期のようす、さらに『スーパータイム』でコンビを組んだ安藤優子さんについてお送りします。
逸見政孝のプロフィール
本名:逸見 政孝
生年月日:1945年2月16日
身長:176センチ
血液型:B型
出身地:大阪府 大阪市 阿倍野区
最終学歴:早稲田大学第一文学部
逸見政孝の死因、スキルス性胃がんは進行がん
1993年9月6日、テレビ史上に残るといっても過言ではない前代未聞の会見が開かれました。
自らの言葉で説明したいという逸見政孝さんの意思により行われた、突然のがん公表会見です。
先に発表した十二指腸潰瘍は嘘であること、自分がおかされている病気はがんであること、1年後に亡くなるのは本意ではないことなど、その内容は衝撃的なものでした。
当時はまだ「がん=死」という認識がことさらに強く、強いショックを与えることから患者本人に告知することさえはばかられた時代。
ましてや会見を開いて公表するなど考えられないことでした。
スーツに身を包んだ逸見さんは、アナウンサーらしく冷静沈着であるように見えて、眼鏡の奥の瞳にはかすかな動揺もにじませていたように感じます。
会見は各局のワイドショーで生中継。
会見では仕事を3か月休んで闘病に専念すると宣言。
終了後、会場では拍手が巻き起こり、「生還してください!」というエールが贈られました。
所属事務所・オフィスいっつみいには激励の電話やファックスが殺到したといいます。
がんと闘う決意を述べ、生還を願った逸見政孝さん。
末期のスキルス性胃がん・再発転移によるがん性悪液質のため、48歳で旅立ったのは同年12月25日のことでした。
がん公表から死去まで、わずか3か月あまり。
辛口コラムニストとして知られる、あのナンシー関さんが、「ほかの芸能人の場合と違って身内を亡くしたような気分」と述べた感覚はよくわかります。
死化粧を施したのはIKKOさんでした。
さて、ここで注目したいのが逸見政孝さんの命を奪ったスキルス性胃がんです。
このがんは特殊な進行がんであり、たちの悪いものといわれていますね。
このため、没後には手術は正解だったのか、別の治療法を選択していれば余命がのびたのではないかなど、多くの疑問の声が出ることに。
ここで逸見さんの闘病と、その最期を順をおって振り返ってみたいと思います。
逸見政孝の壮絶な闘病と最期
1993年1月、医師から「初期のがん」と告げられて、翌月にがん細胞摘出の手術を受けた逸見さん。
初期だから切れば完治しますという見立てを信じ、早く仕事に復帰するために選択した手術でした。
ところが術後に妻の晴恵さんに告げられたのは、予想以上にがんが進行しており、5年の生存率はゼロに近いという事実。
不安を抱いた晴恵さんはセカンドオピニオンを受けることを夫にすすめますが、医師を信頼していた逸見さんはこれを拒絶。
夏には手術あとにできたケロイド状の突起を切除するという名目で再び手術。
この時、がんはすでに腹腔全体に広がっており、手の施しようがない状態でしたが、このことも本人には伝えられませんでした。
その1か月後、ようやく逸見さんは周囲の説得を聞き入れて東京女子医科大学病院へ。
ここでがんの再発と末期的状態であることを知らされて愕然とします。
がん公表の緊急会見を開いたのはこの3日後のことでした。
9月16日の手術は13時間におよび、胃の全摘出のほか、他の臓器の一部を摘出。
その後は腸閉塞やがんの再々発が起こり、普通食禁止の絶対安静に。
徐々に衰弱していく身体に鞭打つように抗がん剤の投与がはじまり、副作用の影響もあって、ますます体調は悪化していきました。
死の9日前には、すでに体重が50kgを下回り、腸にも転移したがんが発覚。
家族は、年を越すのは厳しい状況と主治医から告げられます。
12月25日、逸見さんは壮絶な闘いに幕を閉じました。
没後に噴出したのは、会見の時点で逸見さんのがんは転移した状態であり、特殊な進行がんという性質上、大手術は死期を早めただけという批判。
平成教育委員会の最終回て
クイズ番組とは思えない
エンディングだったなぁたけしも涙ぐんでさ🥺
小島奈津子にコメント求められ
「色んな人の事が頭に。。。」これは俺の勝手な想像だけど
亡くなった逸見さんの事を思い出してるんだなぁと思った#芸能 #ビートたけし #北野武 #逸見政孝 pic.twitter.com/RLKqPD1kV1— SAKU🌸39🌸 (@saku3150saku) May 22, 2019
当時はまだQOL(クオリティ・オブ・ライフ/生活の質)を重視する緩和ケアがさほど浸透していなかったせいもあるでしょう。
担当した医師にとっても、逸見さんのがんは想定外のものだったかもしれません。
ですが、逸見さんのがんとの闘いは、患者と家族が病気についての知識を得ること、がん治療の幅の広さを知ること、セカンド・オピニオンを受けることなどの大切さをあらためて教えてくれます。
安藤優子、育ての親の死に涙
通夜のあと、棺を乗せた車はTBS、NHK、テレビ朝日、テレビ東京を周回。
告別式を終えたあとは日本テレビと古巣のフジテレビをめぐり、荼毘に付されました。
あらためて国民的アナウンサーであったことがわかります。
『スーパータイム』でパートナーを務めた安藤優子さんは、訃報を報じた同番組で本番中に思わず涙。
フジテレビで初めて仕事をしたパートナーが逸見さんであり、「育ての親」でもありました。
コンビを組んだ時、逸見さんは42歳、安藤さんは28歳。
死去の第一報を受けた時は自宅にいたという安藤さん。
鮮明に覚えているのは、バスタブにお湯を張り、その中へ顔を入れて泣いたことだそう。
混乱して、どうしていいかわからなくなったと述べています。
時おり入院中の逸見さんのもとを訪れて、番組に届いた激励の手紙を渡していたようで、家族以外は面会を許されていなかった状況でも、安藤さんは会うことができたそうです。
がん公表からほどなくして亡くなってしまったことと、48歳という若さだったことから世間に衝撃を与えた逸見政孝さん。
この出来事でスキルス性胃がんという悪病があることを知った方も多かったのではないでしょうか。
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