村岡花子は8人兄弟。娘は養女、息子は早逝。孫は翻訳家。大学と生い立ち

『赤毛のアン』『ジャックと豆の木』『フランダースの犬』など、時代を超えて愛読される児童文学の翻訳を手がけた村岡花子(むらおかはなこ)。

NHKの『花子とアン』で再び注目が高まっていますが、ドラマはあくまでフィクションであり、事実と異なる部分もあります。

この記事では、まず兄弟・娘・息子・孫など実際の家族構成をチェックしていきましょう。

児童文学者・翻訳家ということで出身大学にも関心が寄せられていますが、最終学歴や生い立ちについても掘り下げてみたいと思います。

村岡花子、本当は8人兄弟の長女だった

不朽の名作『赤毛のアン』を日本に紹介した翻訳家として広く知られる村岡花子。

欠点だらけなのに憎めない主人公・アンには花子自身も魅せられていたようで、「この少女は、いつの時代においても愛されるにちがいない」という言葉を残しています。


日本に戦雲がたれこめつつあった1939年、友人のカナダ人宣教師から託された L・M・モンゴメリの小説『Anne of Green Gables』。

田園での暮らし、詩への愛情などが自らの少女時代と重なりました。

敵国の言葉でつづられたこの物語を、花子は戦火の中で訳します。

空襲警報が鳴るたびに、防空壕に原書と翻訳原稿をかかえて避難していた、と孫の恵理さん。

戦後の出版業界の荒廃もあって、『赤毛のアン』が出版されたのは翻訳完成から7年後の1952年のことでした。

2014年のドラマ『花子とアン』は、孫の村岡恵理さんの著作『アンのゆりかご』を原案にしていますが、あくまでも創作です。

ヒロインには兄と2人の妹がいましたが、実際の花子は7人の弟や妹をもつ安中家の長女。

名前は上からはな(花子)、千代、庄三郎、健次郎、梅子、磯夫、雪、邦久。

ドラマで賀来賢人さんが演じていた兄・吉太郎は架空の人物ということになりますね。

一方、ドラマの花子が山梨県甲府市生まれで、一家の暮らし向きが困窮していたという設定は事実と同じです。

安中家の8人の子供たちのうち、高い教育を受けたのは長女の花子だけでした。

花子、千代、梅子を残して、全員養子や奉公などで家を出ています。

のちの花子の活躍は、弟や妹たちの忍耐の上にもたらされたものだったのかもしれません。

娘は養女、息子は早逝、孫も翻訳家

女学校を卒業後、英語教師を経て編集者になった村岡花子。

やがて印刷会社を経営する村岡儆三(むらおかけいぞう)と恋に落ちて、不倫の末に結婚。

翌1920年に長男の道雄を授かります。

ところが、愛息は6歳の誕生日を目前に疫痢で早逝。

関東大震災のダメージからは早く立ち直れた花子でしたが、最愛の息子の死は受け入れがたいものでした。

この悲劇を境に、花子は海外児童文学の翻訳に打ち込むようになります。

そうすることで日本中の少年少女たちに愛情を注ぎたいと考えたからでした。

長男を亡くしたあとは子宝に恵まれなかった村岡花子。

そのため、花子の血を引く直系の子孫は絶えています。

後年、妹・梅子の娘のみどりを養女に迎えたのは、道雄とみどりの誕生日が同月同日で、不思議な縁を感じたからだそう。

翻訳家・歌人としても活動した村岡みどりは、『赤毛のアン』という邦題を花子に強くすすめた陰の功労者でもありました。

花子が考えた『窓に倚(よ)る少女』や『窓辺に倚る少女』といったタイトルを酷評し、編集者のアイデアだった『赤毛のアン』を絶賛したのがみどりだったそうです。


2021年現在、翻訳家として活躍中の村岡美枝さんと、文筆家の村岡恵理さんはみどりの娘です。

村岡花子の戸籍上の孫であり、血縁上は大姪にあたります。

美枝さんは『赤毛のアン』シリーズ最終巻『アンの想い出の日々』を訳出。

幼い頃に祖母の家に遊びに行くと、よく仕事の手を止めて物語の読み聞かせをしてくれた記憶があるそうです。

妹の恵理さんは花子が他界した時、まだ生後11か月でした。

ドラマ『花子とアン』のベースとなった『アンのゆりかご』を2008年に刊行しています。

姉妹は1991年から、花子の自宅の書斎を「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」として開設していましたが、のちに閉館。

資料は東洋英和女学院に寄贈され、2021年現在は「村岡花子文庫展示コーナー」で公開されています。

村岡花子の生い立ち&大学は?

村岡花子の父・安中逸平は山梨県甲府市で葉茶屋を営む熱心なクリスチャンでした。

父の希望により、花子も2歳で受洗しています。

商売にあまり身が入らず、理想ばかりを追い求める父は、親族とのいさかいも絶えなかったようで、花子が5歳の時に一切のしがらみを振り捨てて一家で東京へ。

城南尋常小学校に通う花子は短歌を詠んだり、句作をしたりする少女でした。

花子の才能に期待をかけた父は、娘に十分な教育を受けさせるべく、富裕層の令嬢が多い東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)に10歳の花子を給費生として編入させます。

以後の10年間を東洋英和女学校の寄宿生として過ごした花子。

この時期にイザベラ・ブラックモア校長をはじめとする婦人宣教師たちから受けた英語教育、受け継いだ精神、友人たちとの交流は、その後の人生に大きな影響を与えることになりました。

村岡花子の最終学歴は東洋英和女学校高等科卒業です。

のちに東洋英和女学院は幼稚園から大学院まで完備した教育機関になりますが、花子の時代には、彼女を含む多くの人が女子大学誕生を夢みて奔走していました。


1918年に東京女子大学が創立された際は、すでに山梨英和女学校で教鞭をとっていたため入学することはありませんでした。

文筆業だけでなく、婦人参政権運動などにも積極的に取り組んだ村岡花子。

自らの意思にしたがって主体的に生きる姿は、どこか近代女性史に重なるように思えます。

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