中原早苗の夫。川地民夫とは事実婚、深作欣二との結婚。死因、プロフィールまとめ

『仁義なき戦い』シリーズや多くの2時間ドラマに出演した中原早苗(なかはら さなえ)さん。

今回は中原さんの夫について確認しましょう。

事実婚だった川地民夫さん、正式に結婚した深作欣二さんとのエピソードを見ていきます。

さらに中原さんの死因を確認し、プロフィールをまとめます。

中原早苗のプロフィール

本名:深作早苗

生年月日:1935年7月31日

死因:2012年5月15日

身長:不明

出身地:東京都新宿区

最終学歴:国本女子高等学校

中原早苗、夫と話題だった川地民夫とは事実婚

日本の映画界で活躍した中原早苗さんの私生活において、俳優の川地民夫さんとの関係は興味深いエピソードとして知られています。

二人は正式な結婚には至りませんでしたが、一時期、事実婚の関係にあったと言われています。

中原早苗と川地民夫の出会いと交際

中原早苗さんと川地民夫さんの出会いは、映画界での共演がきっかけだったと考えられます。


1950年代から60年代にかけて、二人はそれぞれ日本映画界で注目を集める若手俳優として活躍していました。

共演を重ねる中で、二人の間に親密な関係が芽生えていったのではないかと推測されます。

当時の芸能界では、共演者同士の恋愛は珍しくありませんでした。

二人の関係も、そうした環境の中で自然に発展していったものと思われます。

中原さんと川地さんの交際が始まった正確な時期は明らかではありませんが、1960年代初頭だったと言われています。

二人の関係は、当時の芸能界でも注目を集めたようです。

人気俳優同士のカップルとして、メディアにも取り上げられることがあったと考えられます。

しかし、二人は正式な結婚には踏み切らず、いわゆる「事実婚」の状態で生活を共にしていました。


事実婚とは、法律上の婚姻手続きを行わずに、夫婦としての実態を持って生活を共にすることを指します。

この選択には、二人のキャリアや個人的な事情が影響していた可能性があります。

芸能界では、結婚によってファンの反応や仕事の機会に影響が出ることもあるため、慎重になる傾向があります。

中原さんと川地さんも、そうした事情を考慮して事実婚を選んだのかもしれません。

二人の関係は、周囲の人々にも認知されていたようです。

しかし、その期間は比較的短く、早期に破局を迎えることになりました。

破局の理由については、様々な憶測が飛び交いましたが、確かなことは分かっていません。

一説によると、川地さんの生活スタイルが原因だったとも言われています。


川地さんは、友人である俳優の菅原文太さんとよく飲み歩いていたそうです。

そのため、家を空けることが多くなり、中原さんとの関係に亀裂が入っていったのではないかと推測されています。

また、二人のキャリアの方向性の違いも、破局の一因だった可能性があります。

中原さんと川地さんは、それぞれ異なる映画会社と契約を結んでいました。

そのため、仕事の都合で離れ離れになることも多かったのではないかと考えられます。

こうした環境が、二人の関係に影響を与えたのかもしれません。

破局後、川地さんは一般女性と結婚し、二人の女児をもうけました。

この結婚生活は7年間続きましたが、最終的には離婚に至っています。

一方、中原さんもその後、別の相手と結婚しています。


二人の短い事実婚の経験は、それぞれの人生に何らかの影響を与えたのではないかと推測されます。

芸能界での恋愛や結婚は、一般の人々とは異なる難しさがあると言われています。

中原さんと川地さんの関係も、そうした芸能界特有の事情が影響していたのかもしれません。

二人の関係は短期間で終わりを迎えましたが、日本の芸能史に興味深いエピソードを残したと言えるでしょう。

この経験は、二人にとってその後の人生や芸能活動にも何らかの影響を与えた可能性があります。

中原さんと川地さんの事実婚は、1960年代の日本社会や芸能界の一側面を映し出す鏡のような役割を果たしているとも考えられます。

当時の価値観や結婚観、芸能人を取り巻く環境など、様々な要素が凝縮されているように思われます。

二人の関係は、芸能界における恋愛や結婚の難しさを示す一例として、今でも時折メディアで取り上げられることがあります。

それは、この話題が持つ普遍的な魅力や、人々の関心の高さを示しているのかもしれません。

深作欣二との結婚

中原さんの結婚相手は、映画監督の深作欣二さんでした。

『仁義なき戦い』シリーズをはじめとする任侠映画を中心に、人情モノや文芸作品など幅広く手がけた巨匠です。

『復活の日』や『蒲田行進曲』、ドラマ『必殺仕掛人』などは、今でもファンの多い作品ですね。

中原さんは日活を退社しフリーになったのち、東映映画に数多く出演し、同社の深作さんと交際し始めたようです。

2人は1965年に結婚。

中原さんは夫の代表作『仁義なき戦い』シリーズに出演し、仕事面でも彼を支えたようです。

ただ夫婦生活は決して順風満帆ではありませんでした。


深作さんの女癖が悪く、周囲から夫婦仲を心配されていたのです。

しかし中原さんは動じませんでした。

事実婚に失敗したからこそ、正式に結婚した相手とは生涯添い遂げる覚悟だったのかもしれません。

彼女は2003年に深作さんが72歳で亡くなるまで、寄り添い続けました。

未亡人となってからも、亡き夫の作品を自宅で鑑賞していたそうです。

彼の女性問題に悩まされながらも、夫への愛は変わりなかったのでしょう。

中原早苗の死因は?

中原さんは夫と死別した9年後の2012年、76歳で亡くなりました。

息子の深作健太さんが、連絡が取れない母を心配して、5月17日に世田谷区の自宅を訪ねたそうです。

中原さんは部屋で倒れており、検視の結果、15日時点で亡くなっていたことがわかりました。

死因は心不全で、事件性はないと判断されています。

孤独死だったため、彼女が最期にどんなことを思ったかはわかりません。

中原さんは夫の死後、女優業を事実上引退し、表舞台から遠ざかっていました。

自宅で夫の作品を鑑賞することで、彼の生きた証をかみしめながら、寂しさを紛らわしていたのでしょう。

もしかすると最期の瞬間も、彼の顔を思い浮かべながら、息を引き取ったのかもしれませんね。

今では深作さんと再会し、2人で幸せに過ごしていることでしょう。

中原早苗のプロフィール

中原さんは2003年以降、事実上引退していたため、彼女がどんな女優だったか知らない人も多いでしょう。


実は彼女の両親も俳優でした。

父親の藤尾純さんは、榎本健一率いる浅草の「カジノ・フォーリー」で、喜劇役者として活躍。

映画では東宝の作品を中心に、『沼津兵学校』や『大当り狸御殿』などに出演しました。

彼は1935年に生まれた娘の中原さんを置いて、家を出てしまいます。

そのため彼女は母に育てられました。

母は舞台女優の南部雪枝さん。

夫の藤尾さんと共に、大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」をはじめ、舞台を中心に活動しました。

中原さんの確かな演技力は、俳優の両親から受け継いだものだったのでしょう。

中原さんは1953年の『村八分』でデビュー後、「現代ぷろだくしょん」に入社。

設立メンバー・山村聡さんの自宅に住み込み、女優修業を開始します。

山村さんが監督した映画『蟹工船』に出演し、以降はラジオドラマや舞台などもこなしつつ、着実に演技力を磨いていくのです。

その後、母と知り合いだった水の江瀧子さんにスカウトされ、1955年に日活へ入りました。

日活入社後は、幅広いジャンルの映画でさまざまな役柄をこなします。

同時期に活躍した浅丘ルリ子さんや吉永小百合さんと異なり、ヒロイン役だけでないふり幅の広さが強みでした。


俳優の両親からもらった才能を、「現代ぷろだくしょん」での修業時代に磨き続けた成果といえます。

中原さんは単なる「映画女優」ではなく、器用な「性格俳優」だったのでしょう。

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