加橋かつみの現在。娘と家族。沢田研二との確執、荒井由実が楽曲提供

ザ・タイガースのリードボーカル二枚看板として沢田研二さんと人気を分けた「トッポ」こと加橋かつみ(かはしかつみ)さん。

2024年現在は、どのような活動をしているのでしょうか。

関心が集まっている娘をはじめ家族について、また沢田研二さんとの不仲説、荒井由実時代のユーミンとの不思議な縁についてまとめました。

加橋かつみのプロフィール

本名:高橋 克己

生年月日:1948年2月4日

血液型:B

出身地:大阪府堺市

最終学歴:京都府立山城高等学校中退

加橋かつみの現在

加橋かつみさんは、ザ・タイガースの元メンバーとして知られる伝説的なミュージシャンです。

現在も精力的に音楽活動を続け、新たな挑戦を重ねています。

その活動は、過去の栄光に甘んじることなく、常に前を向いて進み続ける姿勢を示しています。

Old-J-Pops-Clubを中心とした音楽活動

加橋さんの現在の活動の中心となっているのが、Old-J-Pops-Clubです。


この活動は、2000年10月から開始され、現在も継続されています。

Old-J-Pops-Clubは、昭和の音楽を愛する人々が集まり、懐かしい曲を楽しむ場として機能しています。

加橋さんは、このクラブを通じて、グループサウンズ時代の名曲を今に伝える役割を果たしています。

Old-J-Pops-Clubの活動は、単なるノスタルジーに留まらず、新しい世代にも昭和の音楽の魅力を伝える重要な役割を担っていると考えられます。

  • 2000年10月からOld-J-Pops-Club活動を開始
  • グループサウンズ時代の名曲を今に伝える
  • 昭和の音楽の魅力を新しい世代に伝える役割

加橋さんは、Old-J-Pops-Clubの活動以外にも、様々な形で音楽活動を展開しています。


グループサウンズコンサートや昭和同窓会コンサートなど、定期的にライブ活動を行っています。

これらのコンサートは、昭和の音楽ファンにとって貴重な機会となっており、多くの人々を魅了し続けています。

加橋さんのライブパフォーマンスは、年齢を感じさせない情熱と技術で、観客を魅了しています。

その歌声は、若い頃の輝きを失うことなく、むしろ年月を重ねることで深みを増しているように感じられます。

また、加橋さんは音楽プロデューサーとしても活躍しています。

若手アーティストの育成や、新しい音楽の創造にも力を注いでいると言われています。

この活動は、加橋さんの豊富な経験と知識を次世代に伝承する重要な役割を果たしています。

音楽プロデューサーとしての加橋さんの活動は、日本の音楽シーンの多様性と豊かさを支える一翼を担っていると考えられます。


さらに、加橋さんは2005年5月1日に、池袋にGSBV・LIVE HALLをオープンしました。

このライブハウスは、グループサウンズの精神を受け継ぐ新しい音楽の発信地として機能しています。

GSBV・LIVE HALLは、若手ミュージシャンにとっても重要な活動の場となっており、新旧の音楽が交わる貴重な空間を提供しています。

加橋さんは、このライブハウスを通じて、音楽の継承と革新の両立を図っていると言えるでしょう。

近年、加橋さんはメディアにも積極的に出演し、自身の経験や音楽観を語っています。

これらの発言は、音楽ファンだけでなく、若い世代のミュージシャンにとっても貴重な指針となっています。

加橋さんの言葉には、長年の経験に裏打ちされた重みがあり、多くの人々に影響を与えています。


特に、音楽制作の裏側や、アーティストとしての心構えなど、普段聞くことのできない貴重な話題を提供しています。

このような活動を通じて、加橋さんは単なる「元ザ・タイガース」のメンバーという枠を超え、日本の音楽界全体に貢献する存在となっています。

現在の加橋さんの活動は、過去の栄光に甘んじることなく、常に新しい挑戦を続ける姿勢を示しています。

その姿勢は、若い世代のミュージシャンにとっても大きな刺激となっていると考えられます。

加橋さんの現在の活動は、日本の音楽界に新たな風を吹き込み続けており、その影響力は今後も続いていくものと予想されます。

加橋かつみの娘ほか家族について

加橋かつみさんの娘や家族について多くの関心が寄せられているようですが、残念ながらプライベートの情報はないに等しい状況です。

2024年に76歳を迎えますから、年齢的には孫がいても不思議ではありませんね。

加橋かつみさんの女性関係で衆目の知るところとされていたのが川添梶子さんとのロマンス。

彼女は、著名人が集ったイタリアンレストラン、キャンティのオーナー夫人で、デザイナーとしてザ・タイガースの衣装を手がけたこともある女性。

ザ・タイガース脱退後の加橋さんの活動は梶子さん、ひいては川添ファミリーのサポートがあってこそといわれています。

加橋さんはその後、別の女性と結婚して女児が誕生したようですが、それ以上の詳細は不明でした。

沢田研二と衝突したザ・タイガース時代

1967年のセカンドシングル『シーサイド・バウンド』に続いて、『君だけに愛を』『銀河のロマンス/花の首飾り』など大ヒットを連発し、またたく間にスターダムに昇りつめたザ・タイガース。

高い音楽志向をもち、繊細で芸術家肌な加橋かつみさんは、アイドル戦略を前面に打ち出す渡辺プロダクションの方針に不満を募らせてグループ脱退を考えるようになります。

とりわけ事務所の意向に従い、プロに徹して仕事を忠実にこなす沢田研二さんとは意見がぶつかることが多く、やがて不仲が報じられるように。

その背景には、渡辺プロの渡辺美佐副社長の沢田研二さんへの愛情に対する反発もあったといわれています。

美佐副社長のお気に入りはジュリーのみで、加橋さんがキャンティで挨拶をした際に「あなた誰だったかしら?」と返されたというエピソードも。


加橋さんがリードボーカルを務めた楽曲がヒット中の話といいますから強烈ですね。

ジュリーと双璧をなす人気者だったトッポを失うことは事務所にとっても大打撃。

そんななか、1969年3月に加橋さんはザ・タイガースを脱退。

後任にはベーシストのサリーこと岸部修三(現・岸部一徳)さんの弟、シローさんが決まります。

荒井由実の処女作が加橋かつみのアルバムに

松任谷由実さんの荒井由実時代のラストシングル『翳りゆく部屋』は、彼女が14歳の時に作ったといわれる『マホガニーの部屋』が原曲になっています。

この『マホガニーの部屋』に加橋かつみさんが別の歌詞とタイトルをつけて1971年に発表したのが『愛は突然に』。

シングルカットもされていますが、同曲が収録されたセカンドアルバム『1971 花』は、荒井由実さんの処女作がおさめられた幻の名盤。

アルファミュージック創立者の村井邦彦さんの話によると、加橋さんのレコーディングに立ち会った際に録音していた曲がとてもよい曲だったため、提供者は誰かと訊ねると、「由実という女の子」という答えが返ってきたそう。

村井さんはその女の子をすぐに紹介してもらい、高校生のユーミンをスカウト。

しかし、彼女の返事は「大学生になってからお願いします」というものでした。


もともとグラフィックデザイナーを志望していたこともあり、メンバーの衣装デザインも担当するなど、ザ・タイガースには不可欠な存在だった加橋かつみさん。

沢田研二さんとはコインの裏表のような関係性でしたが、スター性のあるリードボーカルが二人いたからこそ、ザ・タイガースの魅力は突出していたのかもしれません。

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