浜田 幸一(はまだ こういち)さんはハマコーの愛称でお茶の間で人気になった政治家です。
息子は跡を継いで政治家になり、防衛大臣など数々の要職を歴任するまでに出世しました。
今回は浜田幸一さんの息子や死因、田中角栄さんとの関係などについて見て行きましょう。
浜田幸一のプロフィール
本名:浜田 幸一 (はまだ こういち)
出身地:千葉県君津郡青堀町(現:富津市)
生年月日:1928年9月5日
没年月日:2012年8月5日(83歳没)
主な学歴:日本大学(農獣医学部)中退
主な役職:衆議院予算委員長 / 自民党広報委員長
浜田幸一の息子は秘書から大臣へ
「政界の暴れん坊」として知られる浜田幸一さんは、その独特の政治スタイルで多くの人々の記憶に残る政治家でした。
しかし、彼の影響力は自身の政治活動にとどまらず、息子である浜田靖一さんを通じて現在の政界にも及んでいます。
浜田幸一さんと息子の関係、そして政治家としての遺産について探ってみましょう。
浜田幸一から浜田靖一への政治家バトン
浜田幸一さんの息子である浜田靖一さんは、現在自由民主党の重鎮として活躍しています。
靖一さんは父の秘書を務めた後、1993年に父の引退に伴い政界に入りました。
この政治家バトンの受け渡しは、日本の政界でしばしば見られる世襲政治の一例と言えるでしょう。
浜田靖一さんは、父の地盤を引き継ぎ、千葉県の選挙区から10回連続で当選を果たしています。
この実績は、幸一さんの築いた強固な地盤と、靖一さん自身の政治家としての力量を示すものと考えられます。
靖一さんは父とは異なるタイプの政治家として知られており、より穏健で調整型の政治スタイルを取っているようです。
しかし、時に父譲りの激しい気性を見せることもあり、最近では党の代議士会で空席が目立つことに対して強く苦言を呈しました。
このエピソードは、幸一さんの政治姿勢が息子にも受け継がれていることを示唆しています。
浜田靖一さんの政治家としてのキャリアには、以下のような特徴が見られます:
- 父の地盤を引き継ぎながらも、独自の政治スタイルを確立
- 防衛大臣や自民党国会対策委員長など要職を歴任
- 父とは異なる穏健な政治姿勢を基本としつつ、時に強い発言も
- 世襲政治の一例としながらも、自身の実力で地位を確立
浜田幸一さんと靖一さんの関係は、単なる親子関係を超えて、政治的な師弟関係の側面も持っていたと考えられます。
幸一さんは引退後も政界に影響力を持ち続け、時に息子の政治活動に対して意見することもあったそうです。
例えば、靖一さんが小選挙区比例代表並立制導入に賛成しようとした際、幸一さんは強く反対したと言われています。
このような親子間の政治的な意見の相違は、日本の政界における世代交代の一面を示しているとも言えるでしょう。
浜田幸一さんの政治家としての遺産は、単に息子に選挙区を引き継いだことだけではありません。
その独特の政治スタイルや、政界における存在感は、今でも多くの政治家たちの記憶に残っています。
幸一さんの「政界の暴れん坊」としての姿勢は、時に批判の対象となることもありましたが、同時に政界に新しい風を吹き込む役割も果たしました。
靖一さんは、そうした父の政治姿勢を直接的には引き継いでいないものの、時に見せる強い発言や行動の中に、父の影響を感じさせることがあります。
浜田幸一さんから靖一さんへと受け継がれた政治家としての血筋は、日本の政界における一つの系譜を形成していると言えるでしょう。
この親子二代にわたる政治家としての活動は、日本の政治の連続性と変化を同時に体現しているように思われます。
浜田靖一さんは、父の築いた基盤の上に立ちながらも、現代の政治情勢に適応した新しい政治家像を模索しているのかもしれません。
今後も、浜田靖一さんの政治活動を通じて、浜田幸一さんの政治家としての遺産がどのように継承され、発展していくのか、注目されるところです。
浜田幸一の死因は?
次は浜田幸一さんが亡くなった死因について見て行きます。
浜田幸一さんの死亡が確認されたのは2012年8月5日午前6時10分のことで、事務所の発表や各種メディアの報道によると死因は「急性心不全」とされていました。
家族が富津市の自宅で亡くなっているのを見つけた経緯から見ても、おそらく浜田幸一さんは寝ている時に心不全を発症して亡くなったと推測することが出来ます。
そもそも「心不全」は病名ではなく”心臓のポンプ機能が低下した状態”を指すので、高血圧や加齢など様々な要因が積み重なった総称と言った方が適切でしょう。
また、晩年は軽度の認知症を発症していたとも言われています。
83歳で亡くなったことに惜しむ声もありましたが、私生活や政界でやりたいことをやり切った人生だったので満足して旅立ったと言えるかもしれませんね。
アクアライン建設に込めた思い
ここでは神奈川県と千葉県を繋ぐアクアラインについて見て行きましょう。
アクアラインの正式名称は「東京湾アクアライン」といい、神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ東京湾横断の高速道路として広く知られています。
千葉県側の木更津市は浜田幸一さんの縄張り同然の地であることから建設に熱心でした。
アクアラインはとても珍しい構造になっており、神奈川県側はすぐ海底トンネルになる一方、千葉県側は「うみほたる」まで長い橋を渡ってから海底トンネルに接続します。
竹中平蔵さんは鉄鋼業者とセメント業者の利益を公平にするための工法と分析していましたが、実際に鋼材は約46万トン、セメントが約70万トンも使用されて業者は潤いました。
また、浜田幸一さんは平時の利便性だけでなく災害などの有事の際にも役に立つと信じており、業者や地盤の利権を超越した大局的な国家プロジェクトだったと説明をしています。
アクアラインがもたらした影響は評価が分かれるところですが、もしもの時に多くの人から感謝される存在になったとすれば浜田幸一さんも喜んでくれることでしょう。
浜田幸一がオヤジと慕った田中角栄
最後に政界の父親であり師だった田中角栄さんとの関係を見て行きます。
もはや説明不要と言われるほど知られている田中角栄さんですが、浜田幸一さんは国会議員になってすぐに同氏が総理大臣になることができる器と見込んで懐へ飛び込みました。
しかし、浜田幸一さんはヤクザ者として嫌われていたので佐藤派(※)入りに反対の声も多く、考えを巡らせた田中角栄さんは対立派閥の川島派(川島正次郎)に行くように指示します。
※当時の田中角栄さんは佐藤派(佐藤栄作)に在籍。
これによって派内の反対派を納得させただけでなく、自身に心酔している子分(浜田幸一さん)を対立派閥に送り込んだことで内情を深く把握することが出来るようになりました。
川島派は椎名派と名前を変え、1979年頃に代表の椎名悦三郎さんが引退したことで解散をしていますが、浜田幸一さんは田中角栄さんではなく金丸信さんの元に身を寄せています。
もちろん師弟関係が崩れたというわけではなく、田中角栄さんは浜田幸一さんを応援するパーティーに駆け付けて挨拶をするなど「遠くて近い」距離感は信頼感の表れでしょう。
あの田中角栄さんに動画のような困惑した表情をさせられるのは浜田幸一さんぐらいですね。
一方で田中角栄内閣が進めた「日中国交正常化」には猛烈に反発しており、全てにおいて従うのではなく自分自身の主張は曲げないという良い意味の頑固さも持っていました。
著書「日本をダメにした九人の政治家」では田中角栄さんからモチ代と称した現金を受け取ったことを明らかにしていますが、当時の政界ではそれも親分の役目だったのです。
今の時代の政治家を見ていると想像もつかないような関係だと言える一方、例え親分(オヤジ)であっても己の信念は曲げないという政治家の意地を見ることが出来ました。
昔の政治家を見た後に最近の政治家を見ると、なぜか溜息が出てしまうのは私だけでしょうか。
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