野中広務の毒まんじゅう発言。小沢一郎との闘争と鈴木宗男。土下座で官房長官に&秘書時代と経歴

不世出の政治家と言っても過言ではない野中広務(のなかひろむ)さん。

野中広務さんがいなければ今の日本はもっと悪い状況に追い込まれていたかもしれません。

野中広務の名言と言えば「毒まんじゅう」

「影の総理」と呼ばれるほど政界に強い影響力を持った野中広務さん。

年功序列をものともせず、叩き上げで国会議員としての地位を築き上げた稀有な存在。

その政治手腕は高く評価され、官房長官や大臣、幹事長など要職を歴任。

政界引退後は大学の客員教授を務めるなど後進の育成にも尽力。


野中広務さんの講義を聞いた事で政治に興味を持った学生も多かったはず。

きっとそんな若者が1人でも増える事を野中広務さんも望んでいた事でしょう。

どんなに立派な思想を持っていても、有象無象で終わる人も多い政治家

そのため、人々の心に残り続ける政治家は数えるほど。

そのような一角の政治家に共通しているのが名言を残しているということ。

田中角栄さんの「政治は数、数は力だ。そして力は金だ」、小泉純一郎さんの「古い自民党をぶっ壊す」などの名言は非常に有名ですよね。

政界で大きな影響力を発揮した野中広務さんも名言を残した一人。

野中広務さんが残した名言は「毒まんじゅう」。

2003年に行われた自民党総裁選で野中広務さんが政治生命をかけて支持したのが藤井孝男さん。

ところが藤井孝男さんも所属する橋本派の会長代理を務めていた村岡兼造さんが支持を表明したのは森派の小泉純一郎さん。

村岡兼造さんのこの行動に対して野中広務さんが発した言葉が「毒まんじゅうを食らったのではないか」。

この「毒まんじゅう」発言は大きな話題となりその年の流行語大賞を受賞。

そして授賞式に出席した野中広務さんは「上手に食べた人もいるが、食べ損ねて大変な傷を負った人もいる」とユーモアを聞かせたスピーチを披露しました。

一方、「毒まんじゅうを食べた」と言われた村岡兼造さんは同年に行われた参議院選挙に落選。

そのまま政界から身を引く決断をすることとなりました。

村岡兼造さんが落選した事で野中広務さんの影響力の大きさを改めて感じた議員も多かったのではないでしょうか。

「影の総理」の異名は伊達ではなかったようですね。

野中広務は小沢一郎との闘争で存在感が顕著なものに

かつては政界に大きな影響力を持ち「キングメーカー」と呼ばれた小沢一郎さん。

ただ、ここ数年は色々な党を渡り歩き、影響力は限定的なものに。

ですが、剛腕として恐れられた存在感は健在。

自民党時代の小沢一郎さんに意見出来るのは限られた政治家だけでした。

少しでも良いポストに就こうと小沢一郎さんにすり寄る政治家も少なくありませんでした。

ところがそんな小沢一郎さんと真っ向から激しい闘争を繰り広げた野中広務さん。

その激しさから「政界の狙撃手」、「闘将」と呼ばれた事もありました。

当時は国政ではまだまだ無名の存在だった野中広務さん。

ですが小沢一郎さんへの抵抗がきっかけで存在感が顕著なものに。

自民党内だけでなく他党からも一目置かれる政治家となりました。

野中広務さんが小沢一郎さんに立ち向かった最大の理由は「一色に染まる恐怖」。

戦前生まれで軍隊への召集経験を持つ野中広務さん。

日本中が軍国主義に染まっていく様子に恐怖を覚えたそうです。

その経験と思いは政治家となってからも変わらず。

多くの政治家が「小沢一郎さんのイエスマン」となる状況を警戒し、小沢一郎さんに立ち向かう決心をしたのでしょう。

そんな野中広務さんの姿勢は小沢一郎さんも高く評価。

野中広務さんの事を「同じ政治家として感服していた」、「信念の政治家」と評しています。

大物政治家に取り入るのではなく立ち向かう事で評価を勝ち得た野中広務さん。

こんな政治家が一人でも増える事を願わずにはいられません。

野中広務は鈴木宗男の師と呼べる存在

北海道では圧倒的な人気を誇る政治家の鈴木宗男さん。

1997年9月から翌年7月まで北海道開発庁長官に就任。

また、政界で随一と言われるロシアとの太いパイプで1998年6月に現職の閣僚では初となる国後、択捉訪問を実現させています。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた鈴木宗男さん。


ところが2002年に「鈴木宗男事件」と呼ばれる収賄事件により自民党を離党。

その後、有罪判決を受けて議員を失職し1年間に渡って収監される事に。

有罪判決を受けた鈴木宗男さんが政治の世界に返り咲く事は難しいと誰もが思ったはず。

ところが鈴木宗男さんは2005年に国会議員に返り咲き。

それだけ鈴木宗男さんが北海道にもたらす恩恵が大きいということ。

今も北海道では鈴木宗男さんの元を訪れる建設業者が後を絶たない事が何よりの証明と言えるでしょう。

そんな鈴木宗男さんの政治の師匠は野中広務さん。

「野中氏が白を黒と言えば、自分も黒」と語るほど野中広務さんに心酔。

鈴木宗男さんも野中広務さんと同じ叩き上げで地位を築いた政治家。

そのため野中広務さんも特別、目をかけていたのでしょう。

「野中、鈴木ライン」と呼ばれ、それまでの常識を打ち破る行動を見せた野中広務さんと鈴木宗男さん。

もし二人の活躍がなければ今も旧態依然とした政界となっていたかもしれません。

今も自民党が最大与党として大きな勢力を維持しているのは二人のおかげと言えるのではないでしょうか。

野中広務は土下座されて官房長官に就任

1998年7月に発足した小渕第1次改造内閣で官房長官に就任した野中広務さん。

この時、野中広務さんはまだ当選回数6回。

年齢的には決して若くはありませんが、議員歴としてはまだ若手議員。

それにも関わらず官房長官に指名されるなんて異例の大抜擢と言えるでしょう。

ただ、野中広務さんは当初、官房長官就任を拒否。

年齢に加えて自分にはそこまでの資質は無い、と固辞したそうです。

ですが総理の小渕恵三さんは諦めず。

何と土下座までして野中広務さんに官房長官就任を依頼したんだとか。

それでも首を縦に振る事は無かった野中広務さん。

その後、元首相の竹下登さんに説得されてようやく引き受ける決意をしたそうです。

こうして官房長官に就任する事になった野中広務さん。

批判の矢面に立ちながら自自公による連立内閣を作るために奔走。

後に「影の総理」と呼ばれるだけの活躍ぶり。

小渕恵三さんが土下座をしてまで官房長官を依頼した事が間違いではない事を証明する結果を残し続けました。

党内における野中広務さんの将来はこの時、決まったと言っても過言ではないでしょう。

きっと晩年は官房長官に指名してくれた小渕恵三さんに感謝する日々を過ごしていた事でしょう。

かつての野中広務は秘書としても優秀だった

現在、議員として活動する人の多くが経験しているのが議員秘書。

議員の手伝いをするだけでなく、政治を間近で体感できる秘書。

秘書となる事で政治への思いを新たにする人も多い事でしょう。

国会議員として活躍した野中広務さんも議員秘書の経験者。

野中広務さんが秘書を務めていたのは衆院議員の田中好さん。


1936年の衆議院議員選挙で初当選した田中好さん。

それ以降、4期に渡って国会議員として活躍しました。

特に1953年の衆議院議員選挙では元首相の芦田均さん、衆議院議長の前尾繁三郎さんを抑えトップ当選。

この快挙の陰にあったが議員秘書を務めていた野中広務さんの活躍でした。

野中広務さんは田中好さんを当選させるために奔走。

トップ当選はその賜物だったそうです。

太っ腹で豪快だった一方で支援者に頭を下げる事が無かったという田中好さん。

そんな田中好さんを元首相を抑えてトップ当選させるなんて簡単に出来る事ではありません。

野中広務さんは秘書だった時から非常に優れた存在だった事が良く分かりますよね。

野中広務の経歴とは

叩き上げながら国会議員の多くが羨むような地位を手に入れた野中広務さん。

ただ、野中広務さんがそれだけの地位を築くのは決して容易な事ではありませんでした。

野中広務さんは被差別部落出身。

そのため、若いころは差別的な発言をされた事もあったそうです。

かつての日本に身分による差別があったのは事実。

ですが近年の日本でもそのような差別があった事は驚きです。

高校卒業後は日本国有鉄道に就職し大鉄局業務部審査課の配属に。

ここで局長を務めていたのが後に総理大臣となる佐藤栄作さんでした。

そして戦後から精力的に青年団の活動を行うようになった野中広務さん。

この時に竹下登さん、浜田幸一さんとも知り合いになったんだとか。

その後、衆議院議員の田中好さんの秘書を経て園部町議員、園部町長を歴任。

ここで政治家としての実力を発揮した野中広務さんはもっと広い世界で政治手腕を発揮すべく府政に進出。

そして京都府議会議員を3期務めています。

府議を務めていた際には日本で初となる重度身体障害者のための施設を開設。

さらには施設を運営するため設立した社会福祉法人の理事長に就任。

当初は府議の任期が終わったら、この社会福祉法人に専念するつもりだったそうです。

ところが野中広務さんは後に国政へ進出。

国民の暮らしをより良いものにするためには国政に出なければと感じたのかもしれません。

また、府議時代の活躍ぶりから各政党からスカウトがあった可能性もありますよね。

そして1983年の衆議院議員の補欠選挙で当選し国会議員に。

その後は年功序列が色濃く残る政界で若手議員とは思えぬ大活躍。

大臣や官房長官、自民党幹事長など要職を歴任。

党内だけでなく他党にも大きな影響力を発揮する議員となりました。


常に国民の事を考え、弱者の味方だった野中広務さん。

最近は私腹を肥やす事ばかり考える政治家が多いなか、野中広務さんこそ政治家のあるべき姿と言えるでしょう。

野中広務さんのような議員が増えれば日本はもっとより良い国になる。

そう思わずにはいられません。

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