大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛さんが演じ話題になった、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)。
江戸幕府最後の将軍ですが、彼の子孫は今でも続いているのでしょうか。
今回は慶喜の子孫の現在、ひ孫はカメラマンという情報を確認し、将軍家の家系図をまとめます。
徳川慶喜のプロフィール
幼名:松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)、のちに松平昭致(まつだいら あきむね)と改名
生年月日:1867年1月10日(慶応2年12月5日)
死没:1913年11月22日
身長:推定150cm前後
出身地:江戸小石川
最終学歴:弘道館
徳川慶喜の子孫と現在
まず慶喜の子孫が現在も続いているのか確認します。
慶喜は正室・美賀子との間に1女をもうけましたが、早世してしまいます。
以降、美賀子は子宝に恵まれませんでした。
その後、慶喜は2人の側室との間に、10男11女をもうけます。
慶喜の部屋に飾ってあった写真は、実際に残っている徳川慶喜の写真をもとに幕末の写真技法“湿板”を用いて再現しました。
1851年に発明された技法で、ガラス板に薬剤を塗って感光材を作り、機材にセットし撮影します。
この後、メイキング風景もお届けします。#青天を衝け#草彅剛 #徳川慶喜 pic.twitter.com/aNTTm0Pmtv— 【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 (@nhk_seiten) May 19, 2021
早世した子供もいますが、生き残った男児は名家へ養子入り、女児は同じく名家へ嫁入りしました。
つまり慶喜直系の子供たちは、徳川宗家を継がなかったのです。
代わりに慶喜は「公爵・徳川慶喜家」を興し、七男の慶久に家督を継がせました。
軽井沢の別荘と徳川慶久家
慶喜の息子、第二代徳川慶喜家当主だった公爵 徳川慶久は、華族の中でも誉高く、後の総理大臣と言われていましたが、早世でした。
美しい妻(有栖川実枝子)さまと仲睦まじく、娘喜久子(のちの高松宮妃)と慶光(のちの当主)との家族写真
祖父が愛されて育っていたと思う一葉。 pic.twitter.com/xB1rBLtclo— 山岸美喜 (@yamagishimadam) April 20, 2021
慶久は貴族院議員を務めた人物で、乗馬やビリヤード、油絵などでも才能を発揮しました。
彼を内閣総理大臣に推薦する声もあるほど、あらゆる分野で優秀な成果を挙げたそうです。
さらに二枚目だったため、華族の子女たちにとって憧れの存在だったとのこと。
しかし脳出血により、わずか37歳で死去。
もし長生きしていれば、慶喜以上に大きな功績を残した可能性が高いため、非常に残念ですね。
父の急死を受け10歳で家督を継いだのが、慶久の長男・慶光です。
宮内省の図書寮に勤務していましたが、終戦で華族制度が廃止されると、貴族院議員の立場を失います。
財産税を払えなくなった結果、邸を売却。
事業にも失敗し、苦労の多い人生を送りましたが、晩年は野菜作りに励みながら穏やかに過ごしたようです。
慶光は80歳でパーキンソン病により亡くなりました。
ひ孫はカメラマンの徳川慶朝
慶光の長男で、慶喜のひ孫にあたるのが、4代目当主だった徳川慶朝(とくがわ よしとも)さんです。
慶喜の故郷である茨城県水戸市に暮らし、2017年に心筋梗塞により、67歳で亡くなりました。
1950年に静岡県で、慶光と会津松平家の徳川和子との間に誕生。
1972年に成城大学経済学部を卒業後、東京グラフィックデザイナーズに就職します。
広告写真の写真家として20年間勤めたのち独立しました。
以降はフリーカメラマンとして、徳川家ゆかりの歴史的建造物を数多く撮影。
また徳川慶喜家の秘蔵写真を見つけ、修正や保存にも努めました。
曽祖父の慶喜も写真好きだったことで知られており、彼が撮った写真も再発見したそうです。
さらに焙煎したコーヒー豆を「徳川将軍珈琲」として卸す事業も展開。
慶喜もコーヒー好きだったため、先祖の趣味を後世に伝える活動を行っていたことがわかりますね。
慶朝さんはかつて結婚し、2男1女をもうけましたが、離婚後は元妻が子供たちを引き取りました。
そのため子供たちは徳川家を継いでおらず、慶朝さんが亡くなると、徳川慶喜家は断絶してしまいました。
しかし慶喜の直系子孫は各地で続いているため、先祖の功績は彼らによって語り継がれていくことでしょう。
徳川慶喜の家系図まとめ
慶喜は第9代水戸藩主・徳川斉昭と、皇族の吉子女王(よしこ じょおう)との間に生まれました。
生まれながらにして、武家と公家の名を背負っていたのです。
彼と側室の新村信との間に、のちに徳川慶喜家の当主となる徳川慶久が生まれます。
彼の次女・喜久子は、高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう)に嫁ぎ、皇族となりました。
長男の慶光は、会津藩の大名・松平容保(まつだいら かたもり)の孫・和子と結婚。
和子が結婚生活や交友録をつづった手記は、『みみずのたわごと』として出版されました。
加筆や構成を担当し出版に貢献したのは、和子の孫にあたる山岸美喜さん。
慶喜の玄孫にあたります。
おじいちゃまは東大出身
とは聞いたことあったのですが、全く信用していなかったヒドイ孫娘💦
資料の中に卒業証書がございまして、その後、墓前にて謝罪をいたしましたm(_ _)m
恩師の塩谷温(しおのや おん)先生が祖父母の結婚のお仲人だったそうです。 pic.twitter.com/a86HGJDpoN— 山岸美喜 (@yamagishimadam) May 18, 2021
当初は2003年に亡くなった祖母の回想録のつもりで、手記の出版を考えていました。
しかし松平家と徳川慶喜家の「歴史の一部を残しておくべき」と考え、本格的な書籍に仕上げたそうです。
江戸幕府最後の将軍だった慶喜。
彼の家系図は徳川家のみならず、皇族や松平家の壮大な歴史をも物語っていましたね。
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