徳川慶喜、父・母との関係。弟は最後の水戸藩主。巣鴨の屋敷跡を騒音で去る

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)。

大河ドラマ『青天を衝け』の放送によって、慶喜の家族にも注目が集まっているようですね。

今回は慶喜の父と母、弟で最後の水戸藩主だった徳川昭武(とくがわ あきたけ)についてご紹介します。

また巣鴨の屋敷跡についても見ていきましょう。

徳川慶喜のプロフィール

幼名:松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)、のちに松平昭致(まつだいら あきむね)と改名

生年月日:1867年1月10日(慶応2年12月5日)

死没:1913年11月22日

身長:推定150cm前後

出身地:江戸小石川

最終学歴:弘道館

徳川慶喜の父

まず徳川慶喜の父をご紹介します。

慶喜は江戸小石川にある水戸藩の上屋敷で、9代目藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の息子として生まれました。

斉昭は「烈公」と呼ばれ、激動の幕末を荒々しく生き抜いた人物です。

『青天を衝け』では、竹中直人さんが演じ、「斉昭本人にそっくり」と話題になりましたね。

斉昭は前藩主だった兄の斉脩(なりのぶ)が早世したため、兄の養子となって藩主に就任しました。

就任に際し、門閥派の重臣たちは、11代将軍・家斉(いえなり)の息子を迎えようとしました。

将軍の息子を藩主に据えることで、幕府からの支援を期待できるためです。

すると斉昭派の藩士40人が、無断で江戸に入り、陳情して騒ぎを起こします。

その中には、のちに斉昭の腹心となる藤田東湖や武田耕雲斎もいました。

結果的に斉脩の遺書が見つかったため、斉昭が藩主に就任したのです。

最終的に斉昭は幕府での政治にも関与しましたが、井伊直弼を敵に回したことで謹慎処分となり、政治生命を絶たれてしまいます。


晩年は不遇だったようですが、政治家としては優れた手腕を発揮したことも事実です。

水戸藩主となった翌日、藩政改革を表明し、庶民から年貢を無理やり取り立てる政策を否定。

「愛民専一」を謳い、庶民に寄り添う政治を目指したのです。

下級藩士に対しても、政治上の意見表明を許可しました。

同時に贅沢や遊興を禁じ、彼自身も質素な木綿着物をまとっていたそうです。

また藤田東湖や武田耕雲斎ら、下級武士であっても有能な人材を登用。

彼らは旧来の「門閥派」に対し、「改革派」と呼ばれました。

また斉昭は農民たちと交流しながら、飢饉への備えとして雑穀の貯蔵を奨励し、農村の救済に尽力。

彼は水戸藩の派閥闘争が生じる原因を作った人物でもありますが、庶民にとっては理想の君主だったのでしょう。

最後は失脚し、心筋梗塞とされる病で60年の生涯を終えましたが、本来はより長く活躍できた人物だったかもしれませんね。

徳川慶喜の母

家斉は藩主となった翌年の1830年(文政13年)、皇族・有栖川宮(ありすがわのみや)家の吉子女王(よしこ じょおう)と婚姻。

吉子は皇族の末娘で、当時としては高齢の27歳だったため、晩婚でした。

自身もそれをわきまえていたため、後継ぎを作る自信がなく、斉昭に側室をつけることを望んだそうです。

しかし斉昭は愛妻家だったようで、吉子の元へ通い続けます。

結果的に七男の慶喜を含む、3男1女に恵まれました。

ところで慶喜は鳥羽伏見の戦いの際、大坂城から敵前逃亡したことで知られています。

幕府軍敗退の原因になったとして、彼の汚点ともいわれる敵前逃亡ですが、彼が逃亡したのは母・吉子の影響が大きかったようです。

母が皇族出身のため、「朝廷に歯向かいたくない」という思いから、逃亡した可能性が高いといいます。

さらに戊辰戦争で官軍を率いた熾仁親王(たるひとしんのう)は、母方の祖父のひ孫にあたる人物でした。

「親孝行」を重んじる水戸学を叩きこまれた慶喜にとって、母の故郷である朝廷を敵に回すことは難しかったのでしょう。

弟は最後の水戸藩主

慶喜の弟は、水戸藩第11代にして最後の藩主・徳川昭武です。

14歳で慶喜の名代となり、パリ万博に派遣されました。

さらにヨーロッパ各国を訪問していましたが、明治維新が起きたため、パリでの留学生活を断念。

帰国したのち、最後の水戸藩主となりました。


政治よりも芸術や写真を好むハイカラな文化人だったようです。

1884年(明治17年)には、千葉県松戸市に邸宅「戸定邸(とじょうてい)」を建て、移り住んでいます。

戸定邸は「旧徳川昭武庭園」として公開され、2015年に庭園が国の名勝に認定。

広々とした芝生や、緑豊かな常緑広葉樹林、遠くに富士山を望む借景がたかく評価されています。

昭武は早々に隠居し、自然豊かな地で、狩猟や写真を楽しみながら余生を送ったのでしょう。

ゆかりの巣鴨・屋敷跡

慶喜ゆかりの観光地は東京都豊島区の巣鴨にもあります。

彼は61歳から巣鴨の邸に暮らし始めました。

庭には故郷の水戸にちなんだ梅林があったそうです。

屋敷と庭は現存しておらず、今は記念碑が建っています。

ただ彼が巣鴨に暮らした期間は短いものでした。

転居から4年後には文京区小日向に移り住んだそうです。

理由は山手線の開通が決まったため。

電車の騒音を嫌って、巣鴨を去ったそうです。


慶喜も弟と同じく、静かな土地で、自然や趣味を楽しみながら暮らしたかったのでしょう。

彼や家族の人柄を知ることで、大河ドラマをより一層楽しめるかもしれませんね。

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