徳川慶喜の正室、嫁は美賀子。篤姫とは不仲?多くの側室、大奥との関係

大河ドラマ『青天を衝け』で話題となった、徳川幕府15代将軍の徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)。

今回は慶喜と周辺の女性たちに焦点を当ててみましょう。

正室、嫁についてご紹介しつつ、天璋院篤姫との仲が悪かったか確認します。

また側室たちの詳細、慶喜と大奥との関係も見ていきましょう。

徳川慶喜のプロフィール

幼名:松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)、のちに松平昭致(まつだいら あきむね)と改名

生年月日:1867年1月10日(慶応2年12月5日)

死没:1913年11月22日

身長:推定150cm前後

出身地:江戸小石川

最終学歴:弘道館

正室、嫁は公家の一条美賀子

慶喜の正室は一条美賀子(いちじょう みかこ)という、公家出身の女性でした。

非常に美しい女性だったようで、『青天を衝け』では、やや顔だちの似通った川栄李奈さんが演じています。


美賀子は公家の今出川公久(いまでがわ きんひさ)の娘で、1835年(天保6年)に生まれました。

しかし彼女が生まれた翌年に公久が死去したため、父の愛を知らずに育ちます。

1853年(嘉永6年)5月、慶喜と婚約。

慶喜は水戸藩の9代藩主・徳川斉昭の子でしたが、一橋家の養子となり、当時は「一橋慶喜」と名乗っていました。

元々は関白・一条忠香の娘・照姫と婚約していたものの、婚儀の前に彼女が天然痘で死去。

代わりに美賀子が一条の養女となって、1855年(安政2年) 12月3日に慶喜と結婚するのです。

公家から武家に嫁入りした彼女は、結婚の3年後に女児を出産。

しかし生後数日で亡くなってしまい、美賀子は悲しみによってふさぎ込みます。

結果的に彼女はその後、二度と子供を授からなかったのです。

そんな中で慶喜は、将軍後見職として14代将軍・家茂に随行し、京都へ赴きました。

夫婦は離れ離れで暮らすようになります。

家茂の死後に将軍となった慶喜は、倒幕運動が活発化する中、大政奉還を決行。

彼は将軍職を辞し江戸時代の終焉に立ち会いましたが、戊辰戦争の際に敵前逃亡したため、朝敵とみなされてしまうのです。

結果的に朝廷へ抵抗せず謹慎生活に入りましたが、このような状況下で、美賀子と顔を合わせることはできませんでした。

明治時代に入ってからも、慶喜は静岡、美賀子は東京で別居生活を送ります。

激動の時代に翻弄された2人は、不幸な結婚生活を送ったといえますね。

夫婦が再会し、一緒に暮らし始めたのは1869年(明治2年)。

慶喜の謹慎が解かれ、美賀子が静岡へ赴いたことで、およそ10年に及ぶ別居生活が終わったのです。

夫婦は静岡で、ようやく落ち着いて暮らし始めます。

1894年(明治27年)、美賀子は乳がんの治療のため、静岡から東京の徳川家達の屋敷へ移りました。

医師の高松凌雲から手術を受けたものの、肺水腫も併発し、60歳で亡くなりました。

慶喜にとっては、静岡で彼女を見送ったのが、根性の別れとなったのです。

東京の谷中霊園には夫婦の墓が建てられているため、きっと2人は彼岸で再会できたのでしょう。

徳川慶喜と篤姫は仲が悪かった?

慶喜は2008年の大河ドラマ『篤姫』で、あまり冴えない人物として描かれていた印象がありますね。

一方13代将軍・家定の正室である天璋院篤姫は、江戸城無血開城に貢献した才女として描かれました。

篤姫は非常に芯のある女性であり、父から「男に生まれていれば」と惜しまれるほど勝気な性格だったようです。

大奥の権力者となった際も、積極的に政治にも関わろうとしていました。

現代に生まれていれば、先進的な考えを持つ女性政治家として活躍していた可能性が高いでしょう。

一説では慶喜は、やや女性を蔑視する傾向にあったそうです。

事実だとすれば、先進的な考えを持つ篤姫とは、不仲だった可能性が高いですね。

篤姫は男性に従うだけの人生を拒否するタイプの女性だったはず。

女性を軽んじる慶喜を嫌っていたとしても、不思議ではありませんね。

徳川慶喜の側室は多数

慶喜には複数の側室がいましたが、後継ぎを産んだのは、中根幸と新村信の2人でした。

彼は側室たちとの間に、10男11女の子供をもうけましたが、いずれも正室の美賀子が養育したそうです。

彼女が熱心に子供たちを育てた目的は、正室として後継ぎを育てる義務だけではなかったでしょう。

実子に恵まれなかった悲しみを癒すためにも、子供たちの成長に立ち会う時間が必要だったのかもしれませんね。

ただ慶喜は2人の側室を寵愛していました。

側室同士も仲が良く、3人と子供たちはいずれも親しく交流していたようです。

一方で美賀子は、1人で外出することが多かったとされています。

彼女は子供がいなかったため、疎外感を抱きながら過ごすことが多かったのかもしれませんね。

大奥との関係

江戸城には、将軍の正室や子女が暮らす、大奥という居所がありました。

大奥はドラマや映画でもよく知られていますね。

しかし慶喜は将軍となってからも、京都に留まっていたため、江戸城に入城しませんでした。

つまり江戸城と大奥に入った経験のない、唯一の将軍だったのです。

そもそも慶喜には将軍になる前から多くの側室がいたため、わざわざ大奥入りする必要もなかったのでしょう。


最終的な側室は先述の2人に絞りますが、元々女性関係は奔放なタイプの男性のようでした。

女性の目線から彼を眺めると、大政奉還を成し遂げた立派な将軍というイメージが、少し変わって見えるかもしれませんね。

大河ドラマ『青天を衝け』で話題となった、徳川幕府15代将軍の徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)。

今回は慶喜と周辺の女性たちに焦点を当ててみましょう。

正室、嫁についてご紹介しつつ、天璋院篤姫との仲が悪かったか確認します。

また側室たちの詳細、慶喜と大奥との関係も見ていきましょう。

徳川慶喜の正室、嫁は?

慶喜の正室は一条美賀子(いちじょう みかこ)という、公家出身の女性でした。

非常に美しい女性だったようで、『青天を衝け』では、やや顔だちの似通った川栄李奈さんが演じています。

美賀子は公家の今出川公久(いまでがわ きんひさ)の娘で、1835年(天保6年)に生まれました。

しかし彼女が生まれた翌年に公久が死去したため、父の愛を知らずに育ちます。

1853年(嘉永6年)5月、慶喜と婚約。

慶喜は水戸藩の9代藩主・徳川斉昭の子でしたが、一橋家の養子となり、当時は「一橋慶喜」と名乗っていました。

元々は関白・一条忠香の娘・照姫と婚約していたものの、婚儀の前に彼女が天然痘で死去。

代わりに美賀子が一条の養女となって、1855年(安政2年) 12月3日に慶喜と結婚するのです。

公家から武家に嫁入りした彼女は、結婚の3年後に女児を出産。

しかし生後数日で亡くなってしまい、美賀子は悲しみによってふさぎ込みます。

結果的に彼女はその後、二度と子供を授からなかったのです。

そんな中で慶喜は、将軍後見職として14代将軍・家茂に随行し、京都へ赴きました。

夫婦は離れ離れで暮らすようになります。

家茂の死後に将軍となった慶喜は、倒幕運動が活発化する中、大政奉還を決行。

彼は将軍職を辞し江戸時代の終焉に立ち会いましたが、戊辰戦争の際に敵前逃亡したため、朝敵とみなされてしまうのです。

結果的に朝廷へ抵抗せず謹慎生活に入りましたが、このような状況下で、美賀子と顔を合わせることはできませんでした。

明治時代に入ってからも、慶喜は静岡、美賀子は東京で別居生活を送ります。

激動の時代に翻弄された2人は、不幸な結婚生活を送ったといえますね。

夫婦が再会し、一緒に暮らし始めたのは1869年(明治2年)。

慶喜の謹慎が解かれ、美賀子が静岡へ赴いたことで、およそ10年に及ぶ別居生活が終わったのです。

夫婦は静岡で、ようやく落ち着いて暮らし始めます。

1894年(明治27年)、美賀子は乳がんの治療のため、静岡から東京の徳川家達の屋敷へ移りました。

医師の高松凌雲から手術を受けたものの、肺水腫も併発し、60歳で亡くなりました。

慶喜にとっては、静岡で彼女を見送ったのが、根性の別れとなったのです。

東京の谷中霊園には夫婦の墓が建てられているため、きっと2人は彼岸で再会できたのでしょう。

徳川慶喜と篤姫は仲が悪かった?

慶喜は2008年の大河ドラマ『篤姫』で、あまり冴えない人物として描かれていた印象がありますね。

一方13代将軍・家定の正室である天璋院篤姫は、江戸城無血開城に貢献した才女として描かれました。

篤姫は非常に芯のある女性であり、父から「男に生まれていれば」と惜しまれるほど勝気な性格だったようです。

大奥の権力者となった際も、積極的に政治にも関わろうとしていました。

現代に生まれていれば、先進的な考えを持つ女性政治家として活躍していた可能性が高いでしょう。


一説では慶喜は、やや女性を蔑視する傾向にあったそうです。

事実だとすれば、先進的な考えを持つ篤姫とは、不仲だった可能性が高いですね。

篤姫は男性に従うだけの人生を拒否するタイプの女性だったはず。

女性を軽んじる慶喜を嫌っていたとしても、不思議ではありませんね。

徳川慶喜の側室は多数

慶喜には複数の側室がいましたが、後継ぎを産んだのは、中根幸と新村信の2人でした。

彼は側室たちとの間に、10男11女の子供をもうけましたが、いずれも正室の美賀子が養育したそうです。

彼女が熱心に子供たちを育てた目的は、正室として後継ぎを育てる義務だけではなかったでしょう。

実子に恵まれなかった悲しみを癒すためにも、子供たちの成長に立ち会う時間が必要だったのかもしれませんね。

ただ慶喜は2人の側室を寵愛していました。

側室同士も仲が良く、3人と子供たちはいずれも親しく交流していたようです。

一方で美賀子は、1人で外出することが多かったとされています。

彼女は子供がいなかったため、疎外感を抱きながら過ごすことが多かったのかもしれませんね。

徳川慶喜と大奥の関係

江戸城には、将軍の正室や子女が暮らす、大奥という居所がありました。

大奥はドラマや映画でもよく知られていますね。

しかし慶喜は将軍となってからも、京都に留まっていたため、江戸城に入城しませんでした。

つまり江戸城と大奥に入った経験のない、唯一の将軍だったのです。


そもそも慶喜には将軍になる前から多くの側室がいたため、わざわざ大奥入りする必要もなかったのでしょう。

最終的な側室は先述の2人に絞りますが、元々女性関係は奔放なタイプの男性のようでした。

女性の目線から彼を眺めると、大政奉還を成し遂げた立派な将軍というイメージが、少し変わって見えるかもしれませんね。

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