轟夕起子の死因と晩年。原節子と瓜二つ、子孫に有名人。宝塚いじめと夫たち

日活に破格の契約金で引き抜かれて映画女優に転身した元タカラジェンヌの轟夕起子(とどろきゆきこ)さん。

まさに美人薄命の生涯でしたが、死因は何だったのでしょう。

晩年の活動や似ていると評判の原節子さん、子孫や夫について調べました。

宝塚時代のいじめエピソードもご紹介します。

轟夕起子の死因と晩年の活動

美貌のスター女優として活躍しただけでなく、『お使いは自転車に乗って』を大ヒットさせた歌手としても知られる轟夕起子さん。

まだ49歳という年齢でこの世を去ったのは1967年5月11日、死因は閉塞性黄疸でした。

病状や死に至る経緯については情報がなく、詳しいことはわかりませんが、2年前に胆石の手術で入院し、いったんは回復していたそうです。


その後は映画『男の顔は切り札』に出演しており、またテレビドラマ『おやじさん』も他界した5月まで放送されていたことから、おそらく直前まで撮影していたのではないでしょうか。

仕事を休まざるをえないほどの重篤な状況ではなく、体調の急変があったとも考えられます。

死因の閉塞性黄疸とは、胆管がつまることで胆汁分泌が阻害され、胆汁が腸に流れずに血液中に入り込んで起こる黄疸。

目や皮膚が黄色く変色する、尿の色が濃くなる、身体がかゆくなるといった症状があらわれます。

胆管が閉塞する原因には良性のものと悪性のものがあり、前者はほとんどの場合が総胆管結石。

悪性は胆管がんや膵頭部がんなどがあるそうです。

年齢を重ねてからは容姿や体型の変化に加え、新しいスターの登場もあって脇役が中心となり、芸達者な性格俳優として活躍していた轟夕起子さん。

1963年にはじまった高橋英樹さん主演の「男の紋章」シリーズでは、高橋さんの母親である女組長役で活躍。

胆石を患ったことで、第9作で死亡するという形でレギュラーから降りています。

ホームドラマの母親役や、レギュラー出演した『おかあさんといっしょ』が印象に残っている人も多いのではないでしょうか。

読書好きは終生変わらず、ことに晩年はミステリー小説を好んで読んでいたそうです。

轟夕起子と原節子は瓜二つ?

ネット上には、同時代に活躍した人気女優の原節子さんにそっくりという声が多くみられますね。

ファンはもちろんのこと、二人を知っている人なら一目で見分けはつきますが、知らない人は同一人物と思ってしまう確率が高めです。

それほどに二人はよく似ています。

轟夕起子さんと原節子さんは1943年の『若き日の歓び』で共演していますが、この映画には高峰秀子さんも出演しているという豪華さ。

原節子さんは42歳で引退しているため、50代以降の姿をスクリーンで観られなかったという点では轟夕起子さんと同じです。

ただ、轟さんが夭逝したのに対し、原さんは95歳の天寿を全うしていますから、最期は対照的だったといえるでしょう。

轟夕起子の子孫に元スーパーモンキーズ

轟夕起子さんの家族や、かつて家族・姻戚だった人たちには著名人が多いことでも有名です。

まず子孫からみていきましょう。

最初の夫・マキノ雅弘さんとの間にもうけたのがマキノ正幸さん。

沖縄アクターズスクール創設者で、安室奈美恵さんを見いだした人物として知られます。

正幸さんは旅行で訪れた沖縄が気に入り、親からの遺産を手にしていたこともあって、この地で新しいことをはじめようと一家で移住。

安室奈美恵さんが歩く姿を見ただけでダンスの才能を見抜き、これ以上の逸材は今後アクターズスクールには現れないと直感したそうですから、おそるべき眼力です。


ちなみに、俳優の長門裕之さんと津川雅彦さんは従兄弟。

正幸さんの娘が沖縄アクターズスクール出身で元スーパーモンキーズの牧野アンナさんです。

祖父は映画監督のマキノ雅弘さん、曽祖父は日本映画の父・マキノ省三さんというサラブレッドですね。

80年代にアイドル歌手としてヒット曲をだしたことがあり、スーパーモンキーズは再デビューでした。

2021年現在はAKB48などの振り付けを担当するかたわら、ダウン症の子供たちのエンターテイメントスクール・ラブジャンクスの代表を務めています。

元夫である松川直也さんとの間に誕生した女児は、轟夕起子さんのひ孫にあたりますね。

昔の宝塚はまるで女性の軍隊?

尋常小学校卒業後は宝塚音楽歌劇学校への進学を希望していた轟夕起子さんですが、母親の大反対にあい、結局は高等女学校を中退して入学。

翌年、作曲家・山田耕筰が名付け親となり、「轟夕起子」として宝塚歌劇団に加わります。

宝塚時代は本名の「都留子」をもじった「トルコ」の愛称で人気を博しました。

彼女が在籍した30年代の宝塚は、言うなれば女性版軍隊のようなところであり、下級生は先輩にいじめられるのがお約束だったそう。

轟夕起子さんも例外ではなかったようです。

ある日、劇団から上級生の代役を命じられた轟さん。

それはステージの中央で歌を歌う役でした。

怖い先輩の代役などとんでもないと断るも、劇団側は聞き入れず。

楽譜すら渡してもらえないまま、途方にくれた轟さんは、上級生に直接借りにいくしかありませんでした。

すると、その先輩は代役を引き受けた轟さんを叱責し、目の前で楽譜を破りすててみせたそう。

楽譜がないまま本番を迎えた轟さんは歌を歌うことができず、ただ客席にお辞儀をするしかなかったといいます。

「女の園がいかにやりづらいかが身にしみた」とは後年の言葉です。

轟夕起子の二人の夫たち

私生活は、マキノ雅弘監督との離婚、島耕二監督との再婚・離婚を繰り返すなど波乱万丈でした。


マキノ雅弘さんは生涯に260本を超える映画を撮り、日本映画黄金期の立役者となった映画監督。

「マキノ正博」「 マキノ雅裕」ほか、さまざまな別名議があります。

馴れ初めは、『江戸の荒鷲』撮影中のハプニング。

雨のなか、父親を涙ながらに見送る彼女のクローズアップのシーンで、涙が雨をはじいて目立つように顔に油を塗ったところ、それが目に入って失明寸前の騒ぎに。

責任を感じたマキノ監督が足しげくお見舞いに通ううちに恋愛感情が芽生え、目もやがて回復して、1940年にゴールイン。

妻の両親と同居する結婚生活を送っていた夫妻ですが、ステージパパだった轟さんの父親とマキノ監督の折り合いはよくなかったらしく、それが夫婦仲にも影響したようです。

やがて轟夕紀子さんは、ともに家庭をもつ島耕二監督と恋愛関係に。

マキノ監督との離婚話がまとまったのは結婚からちょうど10年後でした。

奇しくも仮祝言と同じ日だったそうですが、監督は結婚前、占い師に結婚の吉日としてその日をすすめられ、ただし10年後の同じ日に別れるだろうと予見されていたそうです。

島耕二監督は、もともと二枚目俳優として日活の黄金期を支えたスターでした。

監督に転向したのは『雲雀』から。

マキノ監督との離婚後、轟夕紀子さんと島監督との関係はいちだんと深まり、ついに監督の糟糠の妻・夏子さんが離婚訴訟をおこします。

離婚成立後の1953年に二人は結婚。

その後、『細雪』『末は博士か大臣か』など多くの島耕二作品に出演しましたが、結婚生活は12年で破綻。

1965年に協議離婚が成立しています。


2014年に宝塚歌劇の殿堂に初めて選出されたタカラジェンヌのなかでは三番目に若い故人だった轟夕起子さん。

現代劇と時代劇の両方で輝きを放った、日本映画界の絶世の美女の一人であることに間違いはありません。

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