原節子の晩年と引退後。鎌倉、狛江の自宅について。引退理由とは

日本映画史に燦然と名前を輝かせる大女優、原節子(はら せつこ)さん。

『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)で、忘れ難い名演を残しています。

1963年、43歳で事実上引退して以降、表舞台に顔を出すことはありませんでした。

今回は原さんの晩年、引退後の生活に迫ります。

また鎌倉と狛江の自宅、引退理由も確認します。

原節子のプロフィール


本名:會田昌江(あいだ まさえ)

生年月日:1920年6月17日

死没:2015年9月5日

身長:165cm

出身地:神奈川県横浜市

最終学歴:横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)

原節子の晩年は外食すらせず

かつて映画界のトップスターだった原さん。

2015年9月5日、神奈川県内の病院で肺炎により亡くなりました。

95歳という年齢的にも、老衰に近い最期だったのでしょう。

日本映画界の伝説的存在だった原さんですが、晩年は外食すらせず、ひっそりと暮らしていました。

女優の司葉子さんは、1960年に映画『秋日和』で共演以来の親友でした。

2人で2時間に及ぶ長電話を楽しむこともあったそうです。

司さんによると、原さんは基本的に1日中、読書にふけっていたといいます。

新聞も熱心に読み、かつて共演した俳優の訃報や、海外のテロ情報に胸を痛めていたそうです。

1994年には、自宅を売却して12億円の所得を手にした原さん。

晩年は悠々自適に、何不自由なく生活していたのでしょう。

ただ、先に亡くなった人々のことを思い、寂しさを感じる時もあったはず。

生涯独身だったため、ふと孤独を感じる瞬間は多かったかもしれません。

広い自宅の一室で、ひっそりと昔のことを考え、物思いにふけっていたのでしょう。

原節子の引退後

原さんは1963年12月12日、長年タッグを組んだ小津安二郎監督の死に際し、通夜へ出席。

以降は事実上、女優業を引退しました。

実は正式に引退を表明したわけではなく、小津監督の死をきっかけに、表舞台から姿を消したのです。

以降は目立った活動を一切行わなかった原さん。

ただ、メディアにまったく登場しなかったわけではありません。

1968年9月には、小津映画の脚本家だった野田高梧さんの通夜に出席しています。

また度々パパラッチから、姿を隠し撮りされていました。

1993年には、笠智衆さんの通夜へ極秘に参列。

ただし笠さんの通夜を最後に、自ら姿を現すことはありませんでした。

数々の小津映画で共演してきた笠さんが、彼女にとって最後の恩人だったのかもしれません。

これ以降は、表舞台から完全に遠ざかることにしたのでしょう。

鎌倉の自宅

原さんは1964年から晩年まで、神奈川県鎌倉市に暮らしていました。


鎌倉の大仏とは反対側にある、浄妙寺付近に住んでいたといわれています。

「鎌倉文士」と呼ばれる文豪たちが暮らした風情ある土地なら、引退後は落ち着いて暮らせると考えたのかもしれません。

また浄妙寺には姉夫婦が暮らしていたため、何かの時には家族が集まれるようにという事情もあったのでしょう。

寺院が近くにあるということですから、暮らしていたエリアは閑静な住宅街で、自然も多かったはず。

映画界で華々しく活躍した時期の疲れを、静かな鎌倉の自宅で癒していたのかもしれません。

狛江の自宅

原さんといえば鎌倉に暮らしていたイメージが強いですが、実は東京都狛江市に暮らしていた時期もあります。

1948年初春から、地元である神奈川県の保土ヶ谷を離れ、狛江に住み始めました。

自宅は、芝生や池、石灯籠を備えた庭がある、瀟洒な和風住宅だったそうです。

そして表舞台を退いた後の1964年、狛江にある自宅を引き払って、鎌倉へ転居しました。

狛江には16年間暮らしましたが、「映画界へは戻らない」という意思を固めるためにも、東京から離れたのかもしれません。

1994年、狛江の自宅は、隣接していた電力中央研究所へ売却しました。

売却で12億円もの所得を手に入れた原さん。

狛江の自宅への思い入れは、鎌倉へなじむうちに、なくなっていたのかもしれませんね。

原節子の引退理由とは

そもそも原さんは、なぜ事実上引退したのでしょう。

「美しかったあまり、老いていく姿をさらしたくなかった」「小津監督の死に殉じた」など、さまざまな憶測がされています。

筆者は、原さんが主演を務め続けた結果、心身が疲れてしまったという説を信じています。

彼女は15歳から主演級スターとして活躍し続け、美貌の女優としてのイメージを保ち続けていました。

おそらく長年の芸能活動で、エネルギーを消耗させてしまったのでしょう。

「そろそろ引退したい」と思いながらも、恩義ある小津監督が生きている限り、彼の期待に応えることを優先。

そして彼が亡くなったことで、「チャンスは今しかない」と判断し、表舞台を去ったのでしょう。

すでにかなりの資産を手にしていた上に、生涯独身だったため、養う家族もいません。

何不自由なく、1人でゆったり暮らすことを選んだのでしょう。

「引退したら、海外旅行へ行きたい」と語っていた原さん。

しかし実際は国内旅行すらせず、自宅でひっそりと過ごしていました。

現役時代の疲れが一気に押し寄せて、気力が失せてしまったのかもしれません。

元々、そこまでアクティブに働き続けるタイプの人ではなかったのでしょう。

鎌倉の自然の中で、気心の知れた人とお茶を飲み、心身を癒すひと時が至福の時間だったのかもしれません。


原さんが亡くなってから、2023年で8年が経過します。

しかしその姿がフィルムに焼き付けられている限り、彼女は大女優として永遠に輝き続けることでしょう。

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