原節子、マッカーサーの愛人説はデマ。結婚せず旦那や子供はいない&小津安二郎との純愛

今もなお輝きを失わない、往年の銀幕スター原節子(はら せつこ)さん。

絶世の美女だった彼女は、数多くの男性と関係を噂されていました。

今回は原さんがマッカーサーの愛人だったという情報、結婚、旦那、子供について見ていきます。

また小津安二郎監督との愛に迫ります。

原節子のプロフィール

本名:會田昌江(あいだ まさえ)

生年月日:1920年6月17日

死没:2015年9月5日

身長:165cm

出身地:神奈川県横浜市

最終学歴:横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)

原節子、マッカーサーの愛人説に証拠なし

絶世の美女として名高い原さん。

かつてGHQのダグラス・マッカーサー最高総司令官と、愛人関係にあったと噂されました。

原さんは、ハーフやクォーターという噂も囁かれたほど、目鼻立ちのくっきりとした女優でした。


実際には日本橋の問屋を営業する家系に生まれた、生粋の日本人です。

しかしあまりに日本人離れした容貌は、日本を超えて世界の男性をも魅了しました。

1937年、まだ16歳だった原さんは、日独合作の映画『新しき土』で大スターとなります。

アーノルド・ファンク監督に見出された美貌の少女の姿は、世界公開によって諸外国に広まりました。

同作がドイツで公開された際は、ヒトラーも絶賛しています。

そして戦後、日本に赴任したマッカーサーも、『新しき土』を鑑賞していました。

この時マッカーサーは、原さんのことを「チャーミング」と評したそうです。

発言が歪曲された結果、巷では原さんがマッカーサーの愛人という噂が流れ始めたのです。

しかし2人にこれ以上の接点はありませんでした。

原さんの「マッカーサー愛人説」は、一種の都市伝説のような形で広まった、単なる作り話だったといえるでしょう。

一部の噂では、愛人になるどころか、マッカーサーを無視していたという話もあります。

こんな話を見かけた人は、交際の可能性などまったくないと思うかもしれませんね。

政府がマッカーサーに差し出した説

原さんとマッカーサーの噂といえば、「政府の意向だった」という話を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。


あちこちで語られる噂によれば、原さんは当時の日本政府によってマッカーサーに差し出され、愛人になったというのです。

国が勝手に決めたことで無理やり愛人にされたのだとすれば、とても気の毒な話ですね。

しかし前述のとおり、実際にはマッカーサーとの深いつながりなど見つかっていません。

愛人説がデマなら、政府が差し出したという噂も、やはりデマということになります。

噂というのは、拡散されるうちに尾ひれがつき、変化してしまうもの。

元の話にはなかった要素がいつの間にか追加されてしまうのは、ありがちなことですよね。

政府の意向という話も、噂で盛り上がる人たちの考えた作り話なのかもしれません。

デマに影響したかもしれない要素

詳しくは後述しますが、原さんはずっと独身で結婚歴がありません。

自身の心情なども、あまり語らなかったそうです。

そのため、恋愛や結婚をしない理由が気になる人は多く、マスコミはしつこく質問を投げかけていたのだとか。

ファンの間でも、恋人や結婚相手の話題はよく出ていたことが想像できますね。

原さんの恋愛にまつわる噂は、そうした状況の中で生まれたもの。


マッカーサーとの噂も、恋愛や結婚の話がないからこそ、強い興味によって作り出されたものなのかもしれません。

また前述のとおり、原さんは海外の血を感じさせる美しさが評判でした。

共演した有馬稲子さんによれば、西洋風の高い鼻がマスク姿の美しさまで高めていたのだとか。

確かに、原さんの美貌には日本人離れした魅力があります。

外国人であるマッカーサーと並んだら、お似合いのカップルだったかもしれません。

人々のそんな想像も、愛人説に影響したのかもしれませんね。

結婚せず旦那もいないが恋人はいた

原さんに恋い焦がれた男性は、ファンだけでなく共演者にも多かったはず。

しかし前述のとおり、原さんは生涯独身を貫きました。

当然、夫がいたこともありません。

ただし、夫の候補と呼べる男性はいたとされています。

陸上短距離の代表で、ベルリン五輪にも出場経験のある、矢澤正雄さんです。

2004年に、89歳で亡くなりましたが、生前原さんとの関係を回想しています。


映画『新しき土』の撮影でドイツへ渡る直前の彼女と、偶然出会ったそうです。

2人は仲良くなり、銀座で待ち合わせて、よく餅菓子を食べに行っていました。

文通もしていたそうですから、「交際していた」といえる関係だったのでしょう。

やがて矢澤さんは戦地へ出征。

出征後も文通は続け、43年に無事帰国しました。

原さんは、「生きていてくれて、本当によかった」と喜んでくれたそうです。

彼女の言葉に矢澤さんは、「必ず彼女と結婚する」と決意。

しかし原さんはすでに大スターでした。

彼は厳格な父から、「華やかな世界の人と、一緒になってはいけない」と猛反対されてしまったのです。

こうして2人の恋愛は、儚く終わりました。

原さんが生涯独身を貫いたのは、彼への想いをひっそりと抱き続けたかったためかもしれません。

原節子に子供はいない

原さんは生涯で1度も結婚しておらず、子供はいませんでした。

銀幕内で「母親役」より「娘役」がしっくりくる印象だったのは、子供がいなかったためかもしれません。

『ノンちゃん雲に乗る』(1955年)や『秋日和』(1960年)では母親役を演じました。

しかし、あまりに外見が美しい原さん。

母親役としては違和感があると思った人もいるでしょう。


実際に子供を産んでいれば、もう少し家庭的な雰囲気が身についていた可能性があります。

年齢的に母親役が増えてきた辺りで、役柄の限界を感じ、43歳で事実上引退したのかもしれませんね。

原節子と小津安二郎の純愛

原さんと関係を噂された男性の中には、彼女をいく度も作品に起用してきた、小津安二郎監督もいます。

2人は長年、「相思相愛」だったとされてきました。

『殉愛―原節子と小津安二郎』(2012年)の著者で映画評論家の西村雄一郎さんによると、2人はあえて結婚を選ばなかったそうです。

小津監督は原さんを眺めながら、頬を赤らめるほど惚れていたといいます。

しかし彼女を自分のものとせず、「映画界のミューズ」として作品に起用し続けることで、彼女をあがめることにしたそうです。

原さんの方も、あくまで「小津監督」として尊敬し続ける道を選びました。

結婚してしまえば、お互いの現実的な面まで見えてしまうため、理想の映画作りに支障が出ると考えたのかもしれません。

2人はお互いを「映画人」として尊敬し合うというやり方で、愛を表現していたのでしょう。

1963年、小津監督の死をきっかけに表舞台から去った原さん。


小津監督のいない映画界で、もはや自分にできることはないと考えたのかもしれませんね。

引退によって彼女は、小津監督が思い描いた通り、「永遠のミューズ」になったといえるでしょう。

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