今もなお輝きを失わない、往年の銀幕スター原節子(はら せつこ)さん。
絶世の美女だった彼女は、数多くの男性と関係を噂されていました。
今回は原さんがマッカーサーの愛人だったという情報、結婚、旦那、子供について見ていきます。
また小津安二郎監督との愛に迫ります。
原節子のプロフィール
本名:會田昌江(あいだ まさえ)
生年月日:1920年6月17日
死没:2015年9月5日
身長:165cm
出身地:神奈川県横浜市
最終学歴:横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)
原節子はマッカーサーの愛人?
絶世の美女として名高い原さん。
かつてGHQのダグラス・マッカーサー最高総司令官と、愛人関係にあったと噂されました。
9月5日は女優・原節子(🇯🇵1920-2015)の命日。
今年で生誕100年。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男など名匠の監督作品に多数出演した銀幕のスター。私生活は謎に包まれ清楚なイメージを永遠に残した。
白黒写真のカラー化によって鮮烈に蘇る色香に見惚れ…
フィルムの中で生き続ける彼女にまた会いたい。 pic.twitter.com/W7YKKAsx3a— SandA@粗忽長屋 (@suzu1arbre) September 5, 2020
原さんは、ハーフやクォーターという噂も囁かれたほど、目鼻立ちのくっきりとした女優でした。
実際には日本橋の問屋を営業する家系に生まれた、生粋の日本人です。
しかしあまりに日本人離れした容貌は、日本を超えて世界の男性をも魅了しました。
1937年、まだ16歳だった原さんは、日独合作の映画『新しき土』で大スターとなります。
だが、噴火した富士山(浅間山)に、原節子は振袖草履で登るのであった!
『新しき土』撮影協力:円谷英二w pic.twitter.com/YtfXVTXnXP
— 加門七海 (@kamonnanami) November 20, 2018
アーノルド・ファンク監督に見出された美貌の少女の姿は、世界公開によって諸外国に広まりました。
同作がドイツで公開された際は、ヒトラーも絶賛しています。
そして戦後、日本に赴任したマッカーサーも、『新しき土』を鑑賞していました。
この時マッカーサーは、原さんのことを「チャーミング」と評したそうです。
発言が歪曲された結果、巷では原さんがマッカーサーの愛人という噂が流れ始めたのです。
しかし2人にこれ以上の接点はありませんでした。
原さんの「マッカーサー愛人説」は、一種の都市伝説のような形で広まった、単なる作り話だったといえるでしょう。
結婚と旦那について
原さんに恋い焦がれた男性は、ファンだけでなく共演者にも多かったはず。
実際に結婚した旦那さんが、どんな人だったのか気になる人もいるでしょう。
しかし原さんは生涯独身を貫いたため、当然夫がいませんでした。
ただし、夫の候補と呼べる男性はいたとされています。
陸上短距離の代表で、ベルリン五輪にも出場経験のある、矢澤正雄さんです。
2004年に、89歳で亡くなりましたが、生前原さんとの関係を回想しています。
映画『新しき土』の撮影でドイツへ渡る直前の彼女と、偶然出会ったそうです。
2人は仲良くなり、銀座で待ち合わせて、よく餅菓子を食べに行っていました。
文通もしていたそうですから、「交際していた」といえる関係だったのでしょう。
やがて矢澤さんは戦地へ出征。
出征後も文通は続け、43年に無事帰国しました。
原さんは、「生きていてくれて、本当によかった」と喜んでくれたそうです。
彼女の言葉に矢澤さんは、「必ず彼女と結婚する」と決意。
しかし原さんはすでに大スターでした。
彼は厳格な父から、「華やかな世界の人と、一緒になってはいけない」と猛反対されてしまったのです。
こうして2人の恋愛は、儚く終わりました。
原さんが生涯独身を貫いたのは、彼への想いをひっそりと抱き続けたかったためかもしれません。
原節子の子供は?
原さんは生涯で1度も結婚しておらず、子供はいませんでした。
銀幕内で「母親役」より「娘役」がしっくりくる印象だったのは、子供がいなかったためかもしれません。
原さんは『ノンちゃん雲に乗る』(1955年)や『秋日和』(1960年)では母親役を演じました。
しかしあまりに外見が美しいためか、母親役としては違和感がある人もいるでしょう。
実際に子供を産んでいれば、もう少し家庭的な雰囲気が身についていた可能性があります。
年齢的に母親役が増えてきた辺りで、役柄の限界を感じ、43歳で事実上引退したのかもしれませんね。
原節子と小津安二郎の純愛
原さんと関係を噂された男性の中には、彼女をいく度も作品に起用してきた、小津安二郎監督もいます。
2人は長年、「相思相愛」だったとされてきました。
『殉愛―原節子と小津安二郎』(2012年)の著者で映画評論家の西村雄一郎さんによると、2人はあえて結婚を選ばなかったそうです。
「小津映画は10年に一度は同じ映画を見てみたい。その時、どれほど理解できるかを確認したい。つまり小津映画は、自分が人生をどれだけ分かっているかを測定する『リトマス試験紙』の役目を果たすだろう。それが、『小津映画リトマス試験紙説』なのである」西村雄一郎「殉愛 原節子と小津安二郎」 pic.twitter.com/CLANayYlqL
— ノリオ (@norioNY) March 28, 2020
小津監督は原さんを眺めながら、頬を赤らめるほど惚れていたといいます。
しかし彼女を自分のものとせず、「映画界のミューズ」として作品に起用し続けることで、彼女をあがめることにしたそうです。
原さんの方も、あくまで「小津監督」として尊敬し続ける道を選びました。
結婚してしまえば、お互いの現実的な面まで見えてしまうため、理想の映画作りに支障が出ると考えたのかもしれません。
2人はお互いを「映画人」として尊敬し合うというやり方で、愛を表現していたのでしょう。
1963年、小津監督の死をきっかけに表舞台から去った原さん。
小津監督のいない映画界で、もはや自分にできることはないと考えたのかもしれませんね。
引退によって彼女は、小津監督が思い描いた通り、「永遠のミューズ」になったといえるでしょう。
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