石原裕次郎、サングラスの秘密とスーツ。愛用のロレックス、スタイル&ファッションセンス

持って生まれたカリスマ性で多くの人々を魅了した石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さん。

当時の芸能界は石原裕次郎さんを中心に回っていたと言っても決して過言ではありません。

石原裕次郎のプロフィール

愛称: タフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー

本名:石原裕次郎(いしはら ゆうじろう)

生年月日: 1934年年12月28日

身長:178cm

出身地:兵庫県神戸市須磨区

最終学歴:慶應義塾大学

所属事務所: 石原プロモーション元代表取締役社長

サングラスに隠された秘密とは

誰もが認める「昭和の大スター」である石原裕次郎さん。

俳優デビューを果たしたのは1956年の映画「太陽の季節」。

端役での出演でしたがその存在感が瞬く間に話題となり一気に注目を集める存在となりました。

かねてから俳優志望だった石原慎太郎さん。


そのため東宝や東映、日活のオーディションを受けるも落選していたんです。

ところが「太陽の季節」は兄である石原慎太郎さんの著書が原作という事もあり、石原裕次郎さんも撮影の協力する事に。

するとカメラマンとプロデューサーが俳優としての資質に気付いた事から急遽、端役で出演する事が決まったんだとか。

きっと見る人が見れば俳優としての資質と才能は一目瞭然だったのでしょうね。

そして本格的な俳優デビュー作となった同年の映画「狂った果実」で初主演。

さらには共演者に当時のスターだった北原三枝さんを指名するなど新人とは思えぬ豪胆っぷり。

それまでの映画界の常識に捕らわれる事なく我が道を行く。

こんな所も若者から絶大な支持を獲得した要因なのでしょうね。

北原三枝さんとのコンビは「ドル箱コンビ」と呼ばれ、その後も20本以上の映画で共演。

そして1960年には結婚し、私生活でもコンビとなりました。

今では俳優同士が結婚する事は全く珍しくありませんが、当時はタブーとされた時代。

そのため二人が所属する日活は結婚に大反対。

もしかすると解雇や干されてしまう可能性もあったかもしれません。

ただ、世間では祝福ムード一色だった事から最終的には日活としても認めざるを得なかったのでしょう。

そして1963年には「大手映画会社には出来ない、自分のやりたい映画を撮る」として石原プロモーションを設立。

そのため石原プロモーションには俳優だけでなくプロデューサーや撮影、照明技師などのスタッフも所属。

また、撮影に必要となる機材も自前で保有していたそうです。

石原裕次郎さんと志を共にする人々は絆の深さと強固な結束力からいつしか「石原軍団」と呼ばれるように。


そして「黒部の太陽」、「栄光への5000キロ」、「富士山頂」などの話題作を世に送り出しました。

その後、テレビ業界に進出してからは「太陽にほえろ!」や「西部警察」などが大ヒット。

ドラマとは思えない、まるでハリウッド映画のような派手なアクションシーンが大きな話題となりました。

アクションシーンと共に印象深いのがサングラス。

石原軍団の面々のサングラス姿が印象に残っている人も多いと思います。

きっと渋さを引き立たせるためのファッションという意味合いもあったでしょう。

ですが、実は他の理由から意味もあったんです。

それはカンペを読むため。

とある番組で当時、石原プロモーションに所属していた舘ひろしさんが「カンペを観ながら演技をしていた」と暴露。

しかも自分だけでなく渡哲也さんや石原裕次郎さんも撮影中にカンペを見ていた事も明かしています。

ただ、普通にカンペを見ると視線が合わずに不自然な演技となってしまいますよね。

そのためカンペを見ている事がばれないようにサングラスをかけていたんだとか。

映画だと撮影が長期に及ぶため多少の遅れも許容範囲。

ところが毎週放送されるドラマではそうはいきません。

常に締め切りとの闘いで撮影の忙しさは映画とは比べ物にならなかったはず。

その結果、生み出されたのがサングラスをかけての撮影だったのでしょう。

ただ、サングラスを付けても自然なのは男としての魅力があったから。

もし他の俳優がサングラスをかけて演技をしていたらコントのようになっていたかもしれません。

石原裕次郎といえばやっぱりスーツ

石原裕次郎さんと言えば何と言ってもスーツでしょう。

あれだけスーツ姿が様になる人はそうはいません。

それだけにスーツには並々ならぬこだわりがあったそうです。

まず、石原裕次郎さんがスーツを依頼したのはテーラーの遠藤千寿さんだけ。

スーツの他、下着以外は全て作ったそうで私服と衣装を合わせると2000着を超える服を仕立てたんだとか。

日本を代表するスターだけに「衣装を作らせて欲しい」という依頼は多かったそうです。

ですが、遠藤千寿さん以外の人に頼むことはなかったそうです。

きっと腕前は当然ですが人柄にも惚れ込んでいたのでしょうね。

様々な要望にも応えられることも大きかったのかもしれません。

石原裕次郎さんのスーツに使用された生地はヨーロッパ直輸入の希少なもの。

オーダーメイドという事もあり1着あたり40〜50万円という価格になってしまったようです。

また、スーツの作成でも襟を大きくしてみたり、ポケットを斜めにしてみたりと新しいアイデアを提案。

石原裕次郎さんが生み出された1つボタンの上着や大きな襟は世間でも大流行となりました。

そしてスーツの裏地に柄物を使う事を流行らせたのも石原裕次郎さん。

ただ、当時は柄物の裏地が無かった事からエルメスのスカーフを裏地に使用。

その後、遠藤千寿さんが裏地を取り扱う業者に依頼して柄物の裏地を作ってもらうように。

これがメディアで取り上げられ、派手な裏地がブームとなったそうです。

石原裕次郎さんは入院中にも8着のスーツをオーダー。

このオーダーを受けて遠藤千寿さんは急いで作ったそうですが、完成までこぎつけたのは1着だけ。

ですが、袖を通すことなく、亡くなってしまったためこのスーツは棺に納められたそうです。

石原裕次郎さんのスーツに対する思いが伝わってくるエピソードですよね。

きっとスーツは衣装ではなく自分の一部という思いだったのでしょうね。

石原裕次郎はロレックスを愛用していた

様々な芸能人が愛用する高級時計のロレックス。

石原裕次郎さんもロレックスを愛用した一人。

ロレックスの中でも国内で人気が高いとされるのがサブマリーナやエクスプローラー。

ですが石原裕次郎さんはロレックス GMTマスターを特に愛用していたそうです。

流行に流されるのではなく、自分が良いと思う物を愛用する。

こんな所にも「石原裕次郎さんらしさ」が表れていると言えるでしょう。

人気ドラマ「太陽にほえろ!」では赤青ベゼルのGMTマスターを着用。

その他、希少品とされるプレジデントブレスと呼ばれるモデルも所有していたようです。

また、GMTマスター以外にもチェリーニ、オイスターパーペチュアルも所有。

今の時代であればTPOによって時計を変える事は珍しくありません。

ですが、当時は決して一般的と言える事ではありませんでした。

時代を先どった細やかな気配りとファッションセンス。

さすがは石原裕次郎さんと言わざるを得ないでしょう。

日本人離れしたスタイル

身長については178cmとも182cmとも言われる石原裕次郎さん。

ただ、180cm近い身長だった事は間違いないようです。

今でこそ俳優で身長が180cmを超える事は珍しくはありません。

ですが、石原裕次郎さんが芸能活動を始めた1956年頃の男性の平均身長は約160cm。

そう考えるとどれだけ突出した存在かが分かりますよね。

そして上半身はガッチリしていながら、スラリと長い脚。

もし海外のモデルと並ぶことがあっても見劣りする事は無かったはず。

自身でも脚に自信があったのか学生時代から短パンを愛用。

きっと短パンからスラリと伸びた脚に目を奪われる人が多かった事でしょうね。

圧倒的な存在感だけでなく浮世離れしたスタイル。

これらを兼ね備えていれば絶大な人気を博すのも納得です。

石原裕次郎のファッションセンス

俳優に歌手、さらには事務所の社長として活躍した石原裕次郎さん。

これだけでも十分すぎるほどの才能ですよね。

ただ、石原裕次郎さんの凄さはこれだけではありません。

前述のスーツへのこだわりからも分かるようにファッションセンスも抜群なんです。

今や定番ともいえるアロハシャツのボタンを外して裾を結ぶという着こなし。

この着こなしを日本で最初にしたのが石原裕次郎さんと言われているんです。

シャツのボタンを外して裾を結ぶ。

普通の人には決して思いつかない着こなしですよね。


そんな石原裕次郎さんのモットーは「地味な生地で、派手なデザイン」。

口で言うのは簡単ですが実行するのは非常に難しいこと。

この難題をいとも容易く成し遂げてしまうのは間違いなく才能ですよね。

もしかするとファッションデザイナーとしても歴史に名を残す存在になっていたかも。

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