原 辰徳(はら たつのり)さんは学生時代から注目を集める選手だったそうです。
高校や大学での活躍ぶりは将来の日本球界を背負う存在と言われるほどでした。
今回は原さんの東海大相模や東海大学といった経歴や骨折などを見て行きます。
原辰徳のプロフィール
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本名:原 辰徳 (はら たつのり)
身長:181cm
出身地:神奈川県相模原市
生年月日:1958年7月22日
所属球団:読売ジャイアンツ(1981~95) ※選手歴
ニックネーム:若大将
原辰徳は東海大相模時代に甲子園へ4回出場
最初に原辰徳さんの高校時代の経歴について見て行きます。
原さんは1974年4月に東海大相模高校(神奈川県相模原市)へ入学。
東海大相模では父親の貢(みつぐ)さんが監督を務める野球部に入部し、1年生でありながら三塁手のレギュラーを獲得するなど輝かしい経歴をスタートさせています。
高校球児にとって憧れの聖地である甲子園に4度も出場しており、中でも入学した年から3年連続で夏の甲子園大会に出場したことは一生の思い出と言っても良い快挙でしょう。
東海大相模は強豪校なので甲子園でも優勝経験があるかと思いきや、1974~75年の大会ではいずれも3回戦で敗退し、最後の年である1976年は2回戦で敗退をしています。
76年夏、2回戦で小山に敗れ甲子園を後にする東海大相模・原辰徳
Mr. Tatsunori Hara summer 1976 pic.twitter.com/c7Z0gLQaV0— Giants Fan Group™ (@GiantsFanGroup) August 14, 2015
また、1975年の「春のセンバツ」では2回戦から3連勝して決勝戦まで進んだものの、高知高校と延長13回にも及ぶ激戦の末に敗れ”準優勝”という結果に終わっていました。
それでも原さんの人気は優勝校の選手に負けず劣らずの物だったらしく、中でも2歳年上で鹿児島実業のエースだった定岡正二さんとのイケメン対決は中高生の注目を集めたそうです。
鹿児島実業 定岡正二。#甲子園 #昭和 #原辰徳 pic.twitter.com/vF4VOpMben
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そんなふたりが数年後に同じ読売ジャイアンツでプレーするのですから、当時からファンだった人達の喜びや興奮が相当なものだったのは改めて言うまでもありません。
原さんは早くから東海大学への進学を表明していたのでドラフト指名はされず、高校通算43本塁打の記録と「原フィーバー」という記憶を残して東海大相模を卒業しています。
東海大学時代に江川卓と対戦
次は原辰徳さんの東海大学時代の活躍について見て行きましょう。
原さんは1977年4月に東海大相模高校の系列である東海大学(政治経済学部 経済学科)に入学。
ちなみに、父親であり東海大相模野球部の監督だった貢さんも一緒に東海大学へ移っています。
大学では持ち前の打撃センスに磨きが掛かり、1年生秋のリーグを除いた7シーズンでベストナインを獲得し、2年生(秋)と4年生(春)シーズンでは三冠王までも獲得していました。
また、1年生の明治神宮野球大会で東京六大学リーグの主役だった3歳年上の法政大学の江川卓さんと対戦しており、原さんは4打数2安打1本塁打という素晴らしい結果を残しています。
当時の江川さんは学生離れをした投手で、通算17完封や奪三振記録(443個)を残していました。
こう聞くと原さんは凄いリーグで活躍をしていると感じるでしょうが、実は東海大学が加盟していた首都大学野球連盟と江川さんらが居た東京六大学野球連盟は別物です。
大学野球でよく聞く早慶戦(早稲田 対 慶應義塾)は東京六大学リーグに属しているので、人気や実力の面からしても首都大学野球連盟は少し格が落ちてしまうと言えるでしょう。
それでも原さんは大舞台で印象的な活躍をしており、3年時の日米野球では逆転満塁ホームランを放ち、4年秋の明治神宮野球大会では1試合3本塁打という記録を残しています。
1980年8月のアマチュア野球世界選手権に大学生として唯一選ばれる存在感を見せ、同年11月に開かれた第16回プロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。
大学では全日本大学野球選手権や明治神宮野球大会など有名な大会で優勝することはありませんでしたが、ここぞという場面での勝負強さが目立った学生時代でした。
津田恒美との対決で骨折!影響は引退まで続いた
最後に原辰徳さんが津田恒美さんとの対決で骨折したエピソードを見ておきます。
広島カープの守護神で「炎のストッパ―」として恐れられた津田さんですが、いかなる場であってもストレートを軸に真っ向勝負をする姿は敵味方問わず尊敬されていました。
ふたりの対決で伝説となっているのは1986年9月24日に東京ドームで行われた試合で、津田さんのストレートをフルスイングでファウルにした原さんが骨折するという事故が発生。
デッドボールでの骨折なら珍しくありませんが、バットを通じての衝撃で骨折をするというのは非常に珍しく、まさに力と力のぶつかり合いだったと言えるでしょう。
実は当時の原さんは左手首を痛めていた状態であり、全力のフルスイングをすることにリスクを感じてはいたものの、野球人としての本能が勝負へと誘ったと言えます。
のちに原さんは「バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と振り返っていましたが、真っ向勝負をしたことについて一切の悔いは無いと明言していました。
骨折の影響もあって引退するまで1986年の36本塁打を超える数字は出ませんでしたが、あそこで津田さんとの真っ向勝負を避けた方がより大きな後悔になったことでしょう。
ちなみに、津田さんは1993年7月20日に脳腫瘍で32歳の若さで亡くなりましたが、現役最後の対戦相手が原さんだったというのは野球の神様の演出なのかもしれませんね。
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