小堀杏奴の息子・小堀鴎一郎は鴎外の孫。夫と弟の森類。中勘助と永井荷風との書簡

森鴎外の娘で随筆家だった小堀杏奴(こぼり あんぬ)。

息子で鴎外の孫にあたる小堀鴎一郎さんは、医者として知られています。

鴎一郎さんの父で杏奴の夫にあたる男性はあまり知られていないため、確認してみましょう。

また鴎外の末子である森類の詳細、作家の中勘助、永井荷風と交わされた杏奴の書簡についても見ていきます。

小堀杏奴のプロフィール

本名:小堀杏奴

生年月日:1909年5月27日

死没:1998年4月2日

身長:不明

出身地:東京都文京区千駄木

最終学歴:仏英和高等女学校

息子はエリートな町医者の小堀鴎一郎。杏奴の孫については不明

杏奴の息子は1938年生まれの医者・小堀鴎一郎さんです。

祖父である鴎外と同じく、東京大学医学部を卒業したエリートでした。

食道がんが専門の外科医として活動し、東京大学医学部付属病院から国立国際医療研究センターへ。

同センターでは病院長まで務めました。

絵に描いたようなエリート道を進んだものの、定年後は名誉職のオファーを断り、埼玉県の堀ノ内病院で訪問医となります。

鴎一郎さんは病院長時代、最後の3年間はほぼ経営に従事し、現場に出ていなかったそうです。

あるとき橋本龍太郎元首相が入院し、立場上の都合で鴎一郎さんが手術を担当することになります。

そこで久しぶりに手術の緊迫感を思い出し、「現場に戻ろう」と決意。

埼玉県の町医者となって、在宅医療に余生を捧げることにしたのです。

よく「名誉職を投げ打って、なぜ町医者になったのか」と聞かれるといいます。

自身曰く「それは違うのです。現場に出た方が給与は多いし、親友が理事長の病院で復帰しようと思っただけです」とのこと。

同院の小島武理事長が、大学の同級生でした。

親友との縁がきっかけとなり、在宅医療の道に進んだのです。

すでに100人以上の患者さんを担当してきたといいます。

町医者となって在宅医療に従事するうち、患者さんとコミュニケーションを取るようになったそうです。


外科医の頃は手術に注力し、患者さんの気持ちを考えていなかったといいます。

素っ気ない態度だったため「先生は手術のことしか考えていない」と言われたこともありました。

在宅医療は患者さんの最後の望みを叶える仕事のため、コミュニケーションは必須。

相手に向き合い、「お酒を飲みたい」などの望みも叶えてあげるそうです。

手術で病気を治していた時代とは真逆のアプローチですね。

鴎一郎さんは80歳を超えても週3日は訪問医の仕事に従事してきました。

「今の僕は尊敬されないかも。でも在宅医療の世界を知らなければ、医者を全うしたとは言えません」と語りました。

身体が動くうちは在宅医療を続けたいそうです。

エリート外科医と町の訪問医という対照的な肩書を両方手に入れた鴎一郎さん。

医学界の表裏を知り尽くしたからこそ、最後まで医者の道を突き進みたいのでしょう。

忙しい日々を過ごしてきた鴎一郎さんですが、結婚して子供がいるのかはわかりませんでした。

そのため杏奴の孫がいるかは不明です。

孫がいるとしても一般人のため、情報は非公開にしているのでしょう。

小堀杏奴の夫は油彩画家の小堀四郎

杏奴の夫で、鴎一郎さんの父が、画家の小堀四郎です。

漢学者の家に生まれ、洋画家の藤島武二に師事。

川端画学校でデッサンを学んだのち、東京美術学校で特待生となりました。

卒業後は同期生と「上杜会」を結成し、作品を描き続けます。

フランスへの留学も果たし画力を上げながらも、漢学者だった父の教えに従い、作品を売って生活することはありませんでした。

人物画や風景画、戦後は神秘的な夜景画などを制作。

1998年に96歳で亡くなるまで、孤高な姿勢を貫きました。

杏奴には絵を教えた縁で交際に発展し、1934年に結婚しています。

媒酌人は師匠の藤島武二でした。

結婚後は世田谷区の梅丘にアトリエを構え、夫婦は最後まで添い遂げました。

杏奴は夫より4か月早く世を去っています。

四郎が妻の後を追うように亡くなったことからも、2人が深い愛情で結ばれていたとうかがえますね。

小堀杏奴と弟の森類は共に美術を勉強

杏奴も夫と同じく美術に関心があり、絵の勉強をしていました。

弟の森類と共に、四郎の師匠である藤島武二から絵を教わっています。

類は1927年から川端画学校で学び、その後は杏奴と一緒にパリへ遊学しました。

共に絵に対する関心が強かったからこそ、元々は仲の良い姉弟だったことがうかがえますね。

しかし姉と弟は関係が悪化し、結果的には絶縁。

原因は類が著作『鷗外の子供たち』で、姉の悪い面も赤裸々につづったためでした。

ただし2人は関係が悪化したものの、やはり似た者同士だったようです。

いすれも画業を諦め、文筆業に転向し、作家として活躍しました。

類は『驟雨』や『市街八分』などの小説を発表し、芥川賞の予選に推薦されたこともあります。

作家として華々しい活躍をしたわけではないものの、画才よりは、やはり文才の方が際立っていたのかもしれませんね。

小堀杏奴、中勘助、永井荷風との書簡

2006年、杏奴宛てに作家の中勘助が送った未公開書簡が159通発見されました。

中勘助は自伝的小説『銀の匙』で知られる作家です。

名門灘中学校の国語の授業で、3年かけて同作を読み込む「『銀の匙』授業」が展開されたことは有名ですね。

2人は創作者同士、尊敬し合っていたそうです。

杏奴は『銀の匙』を愛読しており、勘助もまた彼女の作品『晩年の父』を高く評価していたといいます。

2人は書簡を通して互いへの敬意を表し合い、創作を続けるよう励まし合っていたのでしょう。

また杏奴は文豪・永井荷風とも書簡をやり取りしています。

終戦後、杏奴は荷風に対して同居を打診する書簡を送りました。

荷風は手紙を受け取るや、「同居は難しい」と返事をしたためます。

その後も再度断りの手紙を書いているため、杏奴から何度か打診されていたことがうかがえますね。

四郎とも交流のあった荷風は、小堀夫婦と深く付き合っていたものの、部屋を借りるのは忍びなかったようです。


書簡からは、有名作家同士の意外な関係性がうかがえるため、面白いですよね。

もしかすると今後も新たに、杏奴と意外な作家とのつながりがわかる書簡が発見されるかもしれません。

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