『落日燃ゆ』や『官僚たちの夏』で知られた経済・歴史小説家の城山三郎(しろやま さぶろう)さん。
社会派のイメージがありましたが、『そうか、もう君はいないのか』など、家族についてつづった作品も残しています。
今回は城山さんの家族について、妻、息子、娘の詳細を見ていきましょう。
また神奈川県茅ヶ崎市の自宅についても確認します。
城山三郎のプロフィール
本名:杉浦英一
生年月日:1927年8月18日
死没:2007年3月22日
身長:不明
出身地:愛知県名古屋市中区
最終学歴:東京産業大学(現在の一橋大学)
城山三郎の家族:妻は容子
城山さんの妻は、杉浦容子さんという4歳年下の女性でした。
2人が出会ったのは1951年、かつて存在した名古屋公衆図書館の前でのこと。
大学生だった城山さんは、図書館の前にかけられた札を見て、今日が休館日だったことを知ります。
そこへやって来たのが、赤いワンピースをまとった高校生の容子さんでした。
城山さんは彼女に一目惚れし、一緒に映画『グレン・ミラー物語』を観に行きました。
出会った当日にデートを実現させるとは、行動力のある男性だったようですね。
しかし男女の仲に厳しい大人が多かった当時、城山さんは親から交際を禁止されてしまうのです。
1年以上経った頃、2人はダンスホールで再会。
想いを封じ切れなかった2人は、1954年に結婚しました。
どちらかが体調を崩すと、お互いに寝巻着のひもをつかみながら眠るほどの仲良し夫婦だったそうです。
神経質で不器用な城山さんを、大らかで物事に動じない容子さんが包み込むように支え続けました。
愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)で講師をしながら小説家を目指す夫を、陰からサポートしていたのです。
46年間の歳月を共に過ごした2人。
しかし2000年2月24日、容子さんはがんにより68歳で亡くなりました。
城山さんは悲しみに暮れ、妻の死を認めないかのようにお墓参りにも行かなかったそうです。
2001年に妻が夢枕に立ったことがきっかけとなり、夫婦生活の思い出をつづり始めました。
城山さんは2006年3月22日に逝去。
妻に関する原稿が死後にまとめられ『そうか、もう君はいないのか』として出版されました。
城山三郎「そうか、もう君はいないのか」お茶目でウィットに富んだ容子さんと歩んだ人生。喪失して尚、共に生きる7年間。少年少女の爽やかさをそのままに、等身大で支え合う夫婦の姿に、涙を堪えることはできなかった。ともに、静かに健やかに、遠くまで行きたい pic.twitter.com/wxHuCQ1W24
— きなり (@__kuuneru) August 8, 2021
城山三郎『そうか、もう君はいないのか』
田村正和さんのドラマを見てからずっと読みたかった本。最後の瞬間まで夫の太陽であろうとした容子さんとそんな妻のすべてを深く愛した城山さん。
互いに凭れあい、支えあった夫婦のあたたかな絆の記録です。
泣けるのは寧ろ娘さんのあとがきです。感涙… pic.twitter.com/nN8JgW7Zmz
— 春斗 (@hard131rin) June 29, 2020
未完の作品とされていますが、城山さんはいつまでも妻について書いていたかったと思われるため、未完となったのは当然ですね。
最期の言葉は「ママは?」だったとのこと。
斜め上を幸せそうに見つめる死に顔だったことから、愛妻に迎えに来てもらえたことがうかがえますね。
城山三郎の家族:息子はキャピタリストの杉浦有一
城山さんには息子と娘がいます。
息子の杉浦有一さんは、慶應義塾大学経済学部を卒業後、大手都市銀行に入行。
ニューヨークに11年駐在し、キャピタリストとして投資業界で活躍してきたようです。
書籍『城山三郎ゴルフの時間』では、あとがきを執筆しました。
父子そろってゴルフが大好きで、一緒にプレイすることが多かったようですね。
後ほど紹介する妹の井上紀子さんが出版に導いた書籍はベストセラーとなりましたが、『ゴルフの時間』は残念ながら絶版とのこと。
妹さんは文筆家ですから、魅力的に父を描くという点では、優秀なキャピタリストも敵わなかったのかもしれません。
城山三郎の家族:娘は文筆家の井上紀子
城山さんには長女と次女がいて、次女の井上紀子さんは『城山三郎が娘に語った戦争』を執筆した文筆家です。
【城山三郎⑤】
「城山三郎が娘に語った戦争」井上紀子
城山三郎の娘、井上紀子による一冊。
「辛すぎて言えなかった」という自身の戦争体験を、晩年に娘に語った話をまとめました。
世界中を泣かせる悪夢を繰り返してはならないという、父の願いが伝わってきます。#おすすめ本 pic.twitter.com/aLtTTFJCtH— 砺波市立図書館 (@tonami_citylib) December 17, 2017
1959年に神奈川県茅ヶ崎市で生まれ、学習院大学文学部国文学科を卒業。
同大学院でも国文学を学び、博士前期課程を修了し、日本語学校の講師として活動しました。
ベストセラーとなった『そうか、もう君はいないのか』の出版を新潮社に持ち掛けたのは、紀子さんでした。
直木賞作家である偉大な父の足跡を追い、まとめ、発表することに全力を注いできたのです。
『城山三郎が娘に語った戦争』は、70歳を過ぎた城山さんが紀子さんに語った戦争体験をまとめたもの。
具体的な戦争描写が少ないことから、城山さんがあまり戦争体験を語りたがっていなかったことがうかがえます。
つらい記憶を思い出したくないため、長い歳月を経ても、当時のことを語るのは苦しい作業だったのでしょう。
紀子さんは変わり者の読書家だった父について、著作やインタビュー、講演などで語り続けています。
娘としては、父を「偉大な小説家」とだけ人々に記憶されるのは不本意に違いありません。
戦争で苦しんだ一個人としての城山さんの人間性を、より多くの人に知ってもらいたいのでしょう。
晩年まで愛した茅ヶ崎市の自宅
城山さんは1957年12月から神奈川県茅ヶ崎市で暮らしていました。
東海岸北の海を気に入り、晩年まで茅ヶ崎を愛し続けたそうです。
ただし愛妻を亡くしてからは、夫婦生活の思い出が詰まった自宅にいられなくなってしまいました。
以降は茅ヶ崎駅前のマンションにあった仕事場で生活を送ったそうです。
自宅と仕事場の位置は特定できませんが、もしかするとまだ現存しているかもしれませんね。
海、レストラン「つばめグリル」、喫茶店「チェス」など、城山さんは茅ヶ崎のあらゆるものを愛していました。
昨夜の晩御飯は つばめグリル のハンブルグステーキ🍴 以前作家の城山三郎さんのエッセイに度々登場していたのが、茅ヶ崎のつばめグリル いつか行ってみたいと思っていたら、宿泊先の新横浜にお店があった😆 とても美味しいハンバーグでした👍️#つばめグリル #ハンブルグステーキ #城山三郎 pic.twitter.com/R4bdDM9J6S
— k.hirota (@k1973hirota) September 4, 2019
茅ヶ崎駅にある純喫茶「チェス」
創業53年のお店は、2Fの窓から見える南口のロータリーができたタイミングで現在の場所に移転。
現在では珍しく、喫煙可の喫茶店。
注文した黒カレーが、ほどよい辛味とコクでハーモニーを奏でていた。#純喫茶コレクション #昭和レトロ放浪記 pic.twitter.com/T7U0Qn0v3X— ヒロタ ケンジ|房総半島 ⛰山奥暮らし (@piroken1980) January 6, 2020
今も妻と一緒に魂となって、茅ヶ崎をふらりと訪れているのかもしれません。
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