激動の幕末に生き、泣く子も黙る新選組の鬼副長として恐れられた土方歳三(ひじかたとしぞう)。
とかく「冷徹」「厳格」というイメージが先行しがちな土方ですが、はたして鬼のように恐ろしいだけの人物だったのでしょうか。
今回は土方歳三の性格をはじめ、たくあん漬けが好物などといった意外な逸話の数々から、その人物像に迫っていきます。
剣客としても一流だった土方の剣術の流派についても詳しくみていきましょう。
土方歳三のプロフィール
別名:義豊、隼人
生年月日:天保6年5月5日(1835年5月31日)
死没:明治2年5月11日(1869年6月20日)
身長:推定167cm前後
出身地:武州武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)
土方歳三はどんな性格?
享年35という短い生涯でありながら、今なお絶大な人気を誇り、小説や映像などの創作作品にも繰り返し取り上げられる土方歳三。
生家の土方家は多摩の豪農で、歳三は10人きょうだいの末っ子でした。
生まれた時に父はすでに亡く、母も6歳の時に結核で他界。
家督を継いだ次兄夫婦に養育された歳三は、幼い頃から負けん気が強く、やんちゃな男の子で、「バラガキのトシ」と呼ばれていました。
「バラガキ」とは、触れると怪我をする、茨のトゲのような子供のこと。
武人として名を上げたいという思いは少年時代から強く、生家の庭先には、その願いをこめて手植えした矢竹が青々と茂っています。
土方歳三の性格を語るうえで欠かせないのは新選組時代のエピソードでしょう。
歳三は、烏合の衆である新選組を統率するために、また武士より武士らしくあるために、そして近藤勇を檜舞台に押し上げるために鬼の仮面を被り続けます。
局中法度という鉄の掟を考案し、隊規に背いた者は、たとえ幹部であろうと容赦なく粛清した話や、池田屋事件の直前に古高俊太郎に凄惨な拷問を行った話は有名ですね。
揺るぎない信念で己の道を貫いたのは、甘い顔をしていては新選組は瓦解することを誰よりも理解していたからでしょう。
近藤勇が処刑されたあと、歳三は幕府軍の幹部として北へ転戦し、やがて戊辰戦争最後の戦場、箱館(現在の函館)の五稜郭へ。
新選組崩壊後は、ようやく本来の自分に戻れたようで、箱館での歳三は、京都での「鬼の副長」とはまったく違うやさしい顔をみせていたといいます。
若い兵士を誘って飲食にでかけたり、相談にのったりするなど、「温和な性格で、部下からは母のように慕われていた」という証言が残っています。
なぜ鬼の仮面を外したのかは本人にしかわかりませんが、もはや新選組もなくなって近藤も刑死、加えて箱館戦争では榎本武揚ら幹部もいたということで、責任者のくびきから解き放たれたのかもしれません。
あるいは、死に場所を得て達観したのかもしれません。
髷を切った洋装の写真からは、いち早く西洋の文化を受け入れたことがわかります。
早い段階で刀による戦の限界を感じ、洋式軍備の必要性を感じていたことや、懐中時計を愛用していたことからも、便利なものは受け入れる柔軟性や合理性の持ち主であったことがうかがえます。
イケメン副長・土方歳三の好物はたくあん漬け
現代でも女性ファンが多く、実際にモテモテだった土方歳三。
そんな歳三の大好物は、たくあん漬けでした。
とりわけ好んでいたのが小野路村の橋本家のたくあんだったようで、それを山のように盛って、おいしそうに食べていたといいます。
橋本家のたくあんがあまりにも好きすぎて、樽ごとかついで帰ったという話までありますが、当時の漬け物の樽は、かなり大きかったはず。
はたしてたくあんが入った樽をかつぐことはできたのでしょうか。
小さい樽に小分けしてもらったとも考えられますが、「それほど好物だった」という誇張表現なのかもしれません。
京都の新選組時代にも毎日のように漬け物を食していたと伝わりますが、橋本家のたくあんが恋しかったのは間違いないでしょう。
土方歳三の逸話まとめ
女性たちからの恋文の束を故郷に送りつける
色白で端正な顔立ちに加えて、当時としては長身だったこともあり、とても女性に人気があった土方歳三。
新選組時代、彼を慕う多くの女性からの恋文をまとめて木箱に詰めて、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という句を添えて故郷に送った逸話は有名です。
「モテちゃってモテちゃって、国に尽くす気持ちを忘れそうだよ」といったところでしょうか。
自慢には違いないのですが、危険と隣り合わせの毎日を心配しているであろう故郷の人々に、よけいな気を遣わせまいとした彼なりのメッセージとも受けとれます。
「土方歳三=美男」の図式はしっかりとできあがっているようで、映像作品でも二枚目俳優が演じることが多いですね。
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和歌や俳諧をたしなむ風流人
新選組という血生臭い組織に身をおく一方で、和歌や俳句をたしなむ風流な一面もありました。
俳号は「豊玉」といい、書きためた句を「豊玉発句集」として自らまとめています。
鬼の副長・土方歳三の渾身の発句をご紹介します。
「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」
「しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道」
「願うこと あるかも知らず 火取虫(ひとりむし)」
火取虫とは、火に誘われて近づき、焼け死んでしまう虫のこと。
よく言えば技巧に走らない素朴さがあり、悪く言えば「そのまんま」の句なのですが、やはり「下手」と評されることが多いよう。
ですが、何ともいえない味わいがあり、やさしいまなざしを感じます。
有名な写真は市村鉄之助に託した形見のひとつ
土方歳三の有名な写真は五稜郭時代に撮影したものです。
死の直前、歳三は遺髪と写真を小姓の市村鉄之助に託し、故郷の日野に届けるように命じます。
ところが鉄之助は、自分はこの地で討ち死にする覚悟なので他の者に命じてほしいと拒絶。
歳三は、断るとあらば討ち果たすと言い放ちます。
気迫に圧された鉄之助は命令に従い、遺髪と写真は歳三の義兄・佐藤彦五郎のもとに届けられます。
歳三は鉄之助をとても可愛がっており、まだ年若い彼を死なせたくなかったために戦地を離れさせたといわれていますね。
鉄之助に託した形見のひとつが私たちの見ている土方歳三の写真です。
よくぞ残してくれた、よくぞ届けてくれたと言いたくなるほどの肖像です。
この写真が存在していなかったら、後世の土方人気は少し違っていたかもしれません。
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土方歳三の剣術の流派は天然理心流
近藤勇、土方歳三、沖田総司ら新選組の中核を担った幹部は、同じ道場で汗を流した仲間でもありました。
彼らの剣術の流派は天然理心流、道場の名は試衛館。
天然理心流は新選組の流派と誤解されることがありますが、これは正しくありません。
創設メンバーのうちの近藤一派の中心人物が天然理心流を修めていたということですね。
歳三が天然理心流に入門したのは安政6年(1859年)3月29日。
その2年後に近藤勇が4代目宗家を襲名しています。
のちに新選組で知名度を上げた天然理心流ですが、当時はメジャーな流派とはいえず、朴訥な太刀筋から「田舎剣法」「百姓剣法」などと揶揄されていました。
しかし剣術としてのレベルはすこぶる高く、幕末ではめずらしく実戦に特化した流派であったことも事実です。
近藤勇が重視したのは技よりも気力や胆力で、命のやりとりをする実際の斬り合いでは、理屈を超えた気合いが運命を分けると教えていたようです。
のちに勇の血筋は絶えてしまいますが、2023年現在は2代目近藤三助の系統が伝承され、試衛館も再興されています。
時代を超えて多くの人々の心に生き続ける土方歳三。
函館の空の上で下手な俳句をひねりながら、日本の行く末を見守っているのかもしれませんね。
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