生と死を見つめ、独自の死生観を持ち続けてきた宗教学者の山折哲雄(やまおり てつお)さん。
角川財団学芸賞や和辻哲郎文化賞の受賞歴もある、宗教研究の第一人者です。
2020年に重度の肺炎を患いましたが、その後の体調はどうなったのでしょうか。
また家族、子供、結婚の情報から、プライベートの様子を見ていきます。
さらに死生観の特徴と父が住職という情報も確認します。
山折哲雄のプロフィール
本名:山折哲雄
生年月日:1931年5月11日
身長:不明
出身地:サンフランシスコ、東京都、岩手県
最終学歴:東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学
山折哲雄は現在、肺炎から回復して健在
2023年に92歳を迎える山折さん。
2020年には重度の肺炎を患い、生死の境をさまよったそうです。
治療の甲斐があって2021年には回復し、朝日新聞のインタビューに答えています。
発症当時は新型コロナウイルス感染症の可能性もあったため、PCR検査も受けたそうです。
コロナではなかったものの、右の肺に膿が溜まっており、1か月の入院生活を送りました。
治療のおかげで回復した山折さんですが、複雑な心境でいるようです。
「現代医学によって生き返ったというか、死に損なった」と語っています。
長きに渡って「死」をテーマに思索を深めてきた山折さん。
「自然な死に方が理想的」と考えているそうですから、人工的な延命によって生きていることに複雑な気持ちを抱いたのでしょう。
ただ家族や友人は、「元気になってくれて良かった」と考えているに違いありませんね。
山折哲雄の家族は妻が1人。子供は息子
山折さんは2023年現在、奥さんと2人で暮らしているようです。
京都で暮らしており、親鸞や道元の入滅場所や、本能寺、壬生寺など仏教にゆかりのある場所が自宅付近にあるといいます。
奥さんに留守番を任せ、遺跡や旧跡を1人で楽しみながら巡っているようです。
また子供は息子さんがいるようですが、おそらく随分前に独立して、別の場所で家庭を築いているのでしょう。
寺院や京都御所を散歩する老父のことを心配し、たまに両親の様子をうかがいに来てくれるのかもしれませんね。
山折哲雄は30代で結婚
山折さんの奥さんについては、一般の方のため詳細は公表されていません。
ただ2020年に発表したエッセイ集『米寿を過ぎて長い旅』で、自身の半生を振り返り、結婚した時期について公表しています。
山折哲雄さんの「米寿を過ぎて長い旅」を読了。90歳の宗教学者のエッセイだが生死観、自然観が味わい深い。すごく共鳴します。
— 北澤一郎 北澤書店 (@ichirokitazawa) August 14, 2020
本書によると30代で結婚して、上京したということでした。
息子ができたということもあり、30~40代は必死に働いたそうです。
春秋社の編集部を経て、さまざまな大学で非常勤講師として勤務。
58歳を迎える1987年に、京都府京都市の国際日本文化研究センターで教授となりました。
働き盛りの時代を東京でせわしなく過ごし、50代で京都に転居したのです。
以降は夫婦で京都に暮らし続けているため、住み心地の良い土地として気に入っていることがうかがえますね。
奥さんは夫が研究者として大成できるよう、優しく支えてくれたのでしょう。
伝統的な死生観。尊厳死に限り安楽死に賛成
山折さんは伝統的な死生観の持ち主です。
伝統的な死生観とは、古代から明治時代まで主流だった、死に対する考え方のこと。
「生と死はひとつながり」という考え方であり、現代のようにある瞬間だけを「死」と認識する考え方とは真逆です。
山折さんは現代の死生観に疑問を呈し、「生と死は表裏一体」と主張しています。
かつては「もがり」と呼ばれる、死者を安置する風習がありました。
古代人にとって死は生の延長線上にあり、決して特別な出来事ではなかったことがうかがえます。
今では死や老いを悪とする西洋の考え方が日本でも浸透しています。
だからこそ人が亡くなった部屋がある不動産を「事故物件」として恐れるなど、死者に対する敬意が失われつつあるのでしょう。
死者への敬意の喪失や、生への過剰な執着による自己中心的な考え方には、筆者も危機感を募らせています。
古代の考え方がすべて理想的とは言いません。
ただ山折さんのように「生と死は表裏一体」と考えられれば、少し気持ちが楽になりませんか。
死は過剰に恐れるべきものではなく、生の延長線上に、自然とやって来るものなのです。
幽霊を恐れている人たちも、やがて先祖たちと同じように「自然に帰っていく」のです。
「そのとき」が来るまで、自然に身を任せて進むことが、最も理想的な生き方なのではないでしょうか。
山折哲雄の父は浄土真宗寺院の僧侶
山折さんは仏教思想に基づいた死生観の持ち主。
父の時雄さんが浄土真宗西本願寺派の僧侶だったからこそ、幼少期から仏教に親しんでいたのでしょう。
時雄さんは海外開教使として、アメリカのサンフランシスコで浄土真宗を布教していました。
山折さんは赴任期間中にサンフランシスコで産声を上げています。
父から仏教の話を聞くことで、幼少期から死や死者を身近に感じていたのでしょう。
「横浜に上陸したとき、家族でくぐった赤い総瓦づくりの建物だけはうっすらと記憶のなかにのこっていた」「父が(サンフランシスコを)桑港(そうこう)と口癖のようにいっていたのが、今ではなつかしい」。宗教学者の #山折哲雄 さんが生い立ちを語ります。#私の履歴書https://t.co/JDkB2tHa91 pic.twitter.com/YgJ3uKI3Kt
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) March 2, 2018
時雄さんが帰国後、太平洋戦争によって大都市は空襲で狙われるようになります。
時雄さんは妻子だけを岩手県花巻市に疎開させ、1人で東京に残りました。
そして1945年3月10日、東京大空襲に遭うのです。
奇跡的に生き延びた後、妻子のいる花巻市へ疎開。
しかし災難は続き、そこでも8月10日に花巻空襲に遭遇してしまうのです。
2度の空襲を生き延びた時雄さんは、自身が「生かされている」ということを強く感じながら戦後を生き続けたのでしょう。
「敗戦の年の3月10日に東京大空襲にあい、疎開してから花巻の空襲と2度の大災厄にあった父親にしてみれば、ようやく訪れた穏やかで幸せな時間だったような気がする」。宗教学者の #山折哲雄 さんが父について語ります。#私の履歴書https://t.co/UTyhQ06gWN pic.twitter.com/3etndBi1q2
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) March 14, 2018
山折さんは戦争経験も通して、生と死とは何なのか、常に自身に問い続けながら命を輝かせてきたのですね。
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