川口晶の現在(2023)。兄弟、家族も俳優、結婚した2人の夫。女優の経歴まとめ

TBSの人気ドラマ『時間ですよ』で、お茶の間でおなじみだった川口晶(かわぐち あきら)さん。

1982年に女優業を引退後は、陶芸家となりましたが、2023年現在も変わらず活動しているのでしょうか。

また同じく芸能界で活躍していた兄弟と家族、結婚相手について確認しつつ、かつての人気女優の経歴をまとめます。

川口晶のプロフィール

本名:川口晶

生年月日:1950年3月1日

出身地:東京都

最終学歴:聖心女子学院高等科中退

川口晶は陶芸家を辞めて現在は専業主婦

晶さんは後述する事情で人気女優のキャリアを手放し、引退しました。

その後は独学で陶芸を勉強して、ギャラリーで個展を開くなど、陶芸家としてのキャリアを重ねてきたそうです。

晶さんが女優引退後に陶芸家となったのは、ファンの間では有名なエピソードでした。

表現力が問われる仕事という共通点もあるため、女優としてのキャリアも陶芸家のスキルを磨く上で役立ったのかもしれません。


ただ個展を開くほど精力的に活動していた晶さんですが、2023年現在は陶芸の道も引退してしまったようです。

高齢のためか、病気を患ってしまったためか、原因は不明です。

今では専業主婦として家庭に入り、楽しく暮らしているようでした。

多忙な生活から解放され、「ゆったりとしたセカンドライフを送りたい」という気持ちになったのでしょう。

また気が向いたら、陶芸家としてカムバックしてくれるかもしれませんね。

川口晶の兄弟3人は俳優

晶さんの兄弟3人もまた、昭和に活躍した俳優たちでした。

以下から順番に詳細を見ていきましょう。

川口晶の兄弟:川口浩

最も俳優として有名なのが、長兄の川口浩さんです。

映画会社「大映」の専属俳優として活躍し、後年はバラエティ番組に進出。

テレビ朝日系の人気番組「川口浩探検隊」では、探検隊のリーダーに扮して各地でロケに参加し、話題となりましたね。

俳優としては慶應義塾高校中退後、俳優座演劇研究所で演技を学び、1956年に映画『裁かれる十代』でデビュー。

大映を代表する二枚目スターとなり、小津安二郎監督の『浮草』や市川崑監督の『おとうと』など名作に出演しました。

1960年に女優の野添ひとみさんと結婚し、2年後に大映を退社すると、実業家となります。

不動産を運営し、俳優が暮らす住宅を建てました。

1967年には俳優業に復帰し、実業家との二足の草鞋を履きながら活動を続けたそうです。

しかし晩年は病気がちだったようで、1987年には食道がんが見つかります。


がんは除去したものの、治療の副作用により腎不全と肺炎を併発し、残念ながら51歳の若さで亡くなりました。

後述する弟たちの不祥事もあり、晩年は気苦労が絶えず、ストレスで病気がちになっていたのかもしれません。

川口晶の兄弟:川口恒

浩さんの弟にあたるのが、同じく俳優の川口恒(かわぐち ひさし)さんです。

妹である晶さんとは、1976年公開の映画『犬神家の一族』で共演を果たしました。

慶應義塾幼稚舎を卒業後にアメリカへ留学し、現地で教育を受けてワシントン大学に進学。

1964年に中退後は帰国して国際基督教大学、上智大学などで学びました。

大学を中退後は『あいつと私』や『青春』などのドラマに出演し、俳優として活動。

映画でも活動していたものの、1978年に麻薬所持の容疑で逮捕されました。

弟の厚さん、妹の晶さんも同容疑で逮捕され、マスコミは「川口一家の麻薬汚染事件」と報道。

恒さんは懲役10か月、執行猶予3年の判決を受けて俳優業を引退しました。

その後は実業家としてレストラン経営に携わっています。

川口晶の兄弟:川口厚

川口兄弟の3男で、晶さんの弟にあたる川口厚さんは、アメリカのリンカーン・ハイスクールで学んだ後に帰国し俳優となります。

劇団新派に入り、舞台を中心に活動しました。

TBSテレビのドラマ『親ばか子ばか』では、母の女優・三益愛子さんと共演を果たしました。

『赤い疑惑』などの人気ドラマにも出演し、映画『さらば夏の光よ』では郷ひろみさんと共演。

芸能プロダクションのマネージャーとしても活躍していたものの、1978年に麻薬所持で逮捕されて引退しました。

引退後は明治座制作部に就職し、2004年までプロデューサーとして舞台の制作に携わります。

2008年9月19日に脳内出血で57年の生涯を終えました。

川口晶の家族は芸能一家

晶さんの兄弟の情報から分かる通り、川口家は芸能一家でした。

彼らの両親は芸能界に大きな足跡を残した人々のため、子供たちが芸能界入りできたのはある意味当然と言えます。

川口晶の父は川口松太郎

父・川口松太郎さんは文学史と演劇史に名を刻む作家です。

舞台化された名作『鶴八鶴次郎』で第1回直木賞を受賞。

時代小説や恋愛小説などを多く執筆し、大衆文学界の重鎮となります。

また劇団新生新派の主事として、演劇界でも活躍し、大映の制作担当として映画界にも貢献しました。

物語を書くだけでなく、自身の作品の舞台上演に携わるなどして、上演にも直接関わった稀有な作家です。

筆者は大学で演劇史を学んでいた時期、生前の川口さんと交流があった元舞台制作者から話を聞いたことがあります。


非常に話しやすく、魅力的な人柄の人だったそうです。

物語を作るだけに留まらず、現場への配慮も欠かさなかった、真の演劇人と言えますね。

川口晶の母は三益愛子

川口兄弟の母は、女優の三益愛子さんです。

榎本健一さん率いる劇団「ピエル・ブリヤント」で看板女優として活躍。

舞台や映画でコメディエンヌの才能を発揮しました。

1936年に長男の浩さんを出産しましたが、当時は松太郎さんに妻子があった関係で、15年間は入籍しませんでした。

戦後は松太郎さんが大映の専務取締役となったことで、同時期に大映へ入社。

1948年の映画『山猫令嬢』で女学生の母親を演じて話題となり、以降は悲劇の母を数多く演じることになりました。

菊田一夫さん原作の舞台『がめつい奴』では「お鹿ばあさん」役を演じて、芸術祭賞やテアトロン賞を受賞しています。

1976年には紫綬褒章を受章。

71歳で膵臓がんにより亡くなるまで、舞台や映画で活躍を続けた名女優でした。

子供たちがいずれも芸能界入りを希望したのは、華々しい経歴を持つ母の影響だったに違いありませんね。

川口晶の最初の結婚相手は長沢純

晶さんが最初に結婚した長沢純さんも、芸能界で活動していた男性です。

司会者やタレント、俳優活動を行った後、実業家となりました。

法政大学在学中、コーラスグループ「スリーファンキーズ」を結成。

リーダーとして活躍し、アルバム『スリー・ファンキーズ・ヒット・パレード』でデビューしました。


1966年に解散するまで、女性たちから声援を浴びました。

イベントの企画を行う株式会社「長沢企画」を設立し、実業家としての道にも進出。

「ザ・ヒットパレード」や「スターびっくり箱」などの司会も務め、社長と兼業しながら活躍を続けました。

晶さんとは1971年に結婚し、長男をもうけたものの、3年後に離婚しています。

原因は不明ですが、生活スタイルや価値観の違いから、衝突してしまったのかもしれません。

川口晶の再婚相手は国重光煕

晶さんは長沢さんと離婚後の1979年、ヨットでの世界一周を成し遂げた国重光煕さんと再婚しました。

国重さんは書籍『ひねもす航海記』の作者でもあります。

晶さんは元々ヨットが好きだったのか、国重さんの人柄に惹かれたのかは分かりませんが、意気投合して結ばれたようです。

長沢さんとの間にもうけた息子さんも、晶さんの選択を尊重してくれていると良いですね。

川口晶の女優の経歴

芸能一家に生まれた晶さんは、聖心女子学院高等科を中退し、女優の道を志しました。

父の松太郎さんの作品を多く上演していた演劇ジャンル「新派」の舞台を踏み始めます。

1970年代にはドラマに多く出演し、明るくやんちゃな役をこなしました。

長沢さんとの離婚から4年後の1978年、兄の恒さん、弟の厚さんと一緒に麻薬所持で逮捕されます。

晶さんは不起訴処分となったものの、女優としてのキャリアを失いました。

翌年に国重さんと再婚し、1982年に母の三益さんが亡くなると、女優業を引退。


陶芸家としてひっそりと活動を続けてきました。

女優業での挫折を経て、陶芸家の道を見つけたのはすばらしいことです。

ただできれば麻薬の誘惑に打ち勝ち、母のような名女優として、活動を続けて欲しかったようにも思えますね。

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